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2009年08月06日 10:18に投稿されたエントリーのページです。他にも多くのトピックエントリーがあります。メインページやアーカイブページをご覧下さい。
« ABPSを代表して、森健次郎様を偲ぶことば | メイン | 大統領の評価(下)~エブラハム・リンカーン~:塚越 至 »大統領の評価(上)~ジョージ・ワシントン~:塚越 至
ケンタッキー州公認会計士 塚越 至
第44代オバマ大統領の初年度の評判は良い。この勢いで内政では100年来の経済危機を乗り切り、外交でイスラム圏との融和が実現すれば歴史に記憶される名声を得ることも可能であろう。
オバマ大統領に先立ちアメリカには建国以来42人の大統領が存在した。ランク付けが好きな米国民のことで、これら歴代の大統領たちの優劣比較が昔から話題になる。
最も優れた3人の大統領は誰か? 建国の父たちの中心人物である初代大統領のジョージ・ワシントン、奴隷制度を廃止し南北戦争を収拾した第16代大統領のアブラハム・リンカーン、そして大恐慌を封じ込めることに成功した第32代大統領のフランクリン・ルーズベルトの3名を挙げるのが大方のアメリカ人の答であろう。
ところがこれを5人に広げると、答は色々と分かれることになる。アメリカが中米や東アジアに食指を伸ばし他の列強と肩を並べる強いアメリカを生んだ、20世紀初頭の大統領だったセオドア・ルーズベルトを5人に加えることをアメリカ人は好む。この大統領はフランクリン・ルーズベルトの従兄弟に当る。
広島、長崎に人類史上初の原爆を投じたハリー・トルーマン大統領を第二次大戦を終結しその後の東西冷戦に対応する枠組みを作ったことを理由に挙げる者も多い。
19世紀最初の大統領だった第3代のトマス・ジェファーソンは、ミシシッピー川以西の広大な土地をナポレオンから購入し、それ以前の倍以上にアメリカ領土を拡大した。その功績に加えて独立宣言を実質的に起草した人物としての名声もあり5人に加える人は多い。
20ドル紙幣に胸像が刻まれる第7代のアンドリュー・ジャクソンは、それまでの中央政界から大統領に就任する伝統を破り、当時のフロンティアだったテネシー州選出であるばかりでなく、孤児から大統領に上り詰めたアメリカン・ドリーム体現の典型だった。官僚政治を排除し庶民のための政治を実現したその政策は、今になってもジャクソニアン・デモクラシーとして存続している。政党政治の創始者でもある。
歴代の大統領ではただひとり、間にもうひとりの大統領をはさんで二期務めた19世紀末のグローバー・クリーブランドも記憶される大統領であろう。国際連盟の生みの親であるウッドロー・ウィルソン大統領の評価は日本ほどアメリカでは高くはないがやはり名が挙がる大統領のひとりである。
これらの後世に記憶される大統領たちだが、その在任中の評判は必ずしも芳しくない。ジェファーソンの二期目は英仏との関係が険悪になり、その対策に英仏両国との通商を断じる経済封鎖政策を採用した。ところが、これが逆にアメリカ経済を苦境に陥れ大統領の人気は地に堕ち失意のまま退任している。トルーマンは大量の戦死者を生んだ朝鮮戦争にアメリカを導いたとして批判の矢面に立ち、結局再選を諦め後任に共和党からアイゼンハワーが選出されることとなった。
二期を務め在任中は相応の評価を維持した共和党選出のセオドア・ルーズベルトは、1912年に第三党から再び大統領選に出馬。この結果、現職で共和党選出のウィリアム・タフトと票田を分けて共倒れとなり、民主党のウッドロー・ウィルソン大統領誕生に加担するという引き際の悪さで生存中の評価は芳しくない。
このように、現職時代の評価と後世のそれとの間にはかなりの乖離がある。代表的な例として、後世では最も評価の高いワシントンとリンカーンのその出自と現職時代の様子を振り返ってみよう。
ワシントンが大統領に就任した直後に実施された初回の国勢調査によれば、当時のアメリカの総人口は四百万人を割る規模だった。独立後の国土は旧英国植民地を吸収したこともあり現在のほぼ四分の一に達したが、そこに現在のケンタッキー州の人口に相当する人々が散在していたことになる。総人口がロス市の現在の人口とほぼ同じ数字であることから、大統領は今日の大都市市長並に過ぎなかったともいえる。
ワシントンは1732年2月11日にバージニア植民地のプランテーション主の息子として誕生した。資産家の出といえよう。しかし11歳の時に父親が死亡したこともあり、学校教育は現在の小学校並みの水準を超えていなかったとされる。ワシントンの後任だった第2代のジョン・アダムス大統領はボストン出身でハーバード大を卒業した弁護士だったこともあり、ワシントンは無学だと周囲に漏らしていたことが記録されている。しかし読書家であったことは、晩年には10紙の新聞に目を通し、蔵書は900冊に達していたことや、二期で大統領を退任した際の演説には難解な語彙が混ざっていたことからも明らかで、アダムスの言は少々誇張とも考えられる。
18歳の時には測量士として未開地の測量に関わり、役職を利用したのか1,450エーカーの土地を手に入れている。土地を遺産相続した後にはワシントンの所有地は4,000エーカーに達し、多数の奴隷を擁する大地主になった。18ホールのゴルフ場が20コースすっぽり入る広大な荘園だったことになる。しかもワシントンは若い頃に既に屈強な体躯に加えて背丈が6フィート2インチの巨漢だったこともあり、指導者の風貌を漂わせていた。
1773年に茶箱を海に投げ込む反英運動のボストン・ティーパーティ事件が勃発、その二年後の1775年には植民地代表が参集した大陸会議が開かれ、その場に軍服姿で出席したワシントンは反英軍の指導者に選出された。しかし、各植民地から馳せ参じた農民で構成された植民地軍は精鋭を誇る大英帝国軍の相手ではなく、農民反乱軍の首謀に過ぎないワシントンが陣頭指揮した1776年から1778年までの間の7回の会戦では植民地軍の勝利は2度に過ぎなかった。植民地軍が勢力を盛り返したのは英国と対抗するフランスが応援に加わった後のことだった。
1789年、独立国家たる合衆国が難産の末誕生、首都と指定されたニューヨーク市でワシントンが初代の大統領に就任した。当時の東海岸中部から南は奴隷を擁した大農場を基盤とした経済だったのに対して、北部は小規模農業に商工業を加えた対照的な経済で成り立っていた。南部が綿花などの農産物を欧州に輸出するためには開放貿易を指向したのに対し、北部は域内の軽工業や商業を保護する政府の介入を期待した。
戦費をまかなうために乱発せざるを得なかった各植民地の戦争債を肩代わりするために連邦政府が生まれたが、借金の大半は北部が負ったもので南部は過大な負担を強いられることになった。こうして南北の対立が先鋭化することになり、それを収拾する策が、首都をニューヨークから南部に移す妥協案で、こうして湿地帯だった荒野を埋め立て整地して誕生したのが現在のワシントンDCである。
ワシントンは1792年に再選されたが、引き続き逼迫したままの財政再建のためにウィスキーに取引税(消費税)を課税したことから各界から不評を買う結果となった。しかし後任に適任者が見当たらなかったことから三選に応じると見られていたが、ワシントンは二期で退任を発表し引退した。1799年67歳で没している。
1776年の独立宣言から憲法が起草された1878年の10余年は、日本の幕末のように個性的な人物が活躍した時代だった。そのような群雄割拠の時代に新生国家を纏める人物は、ワシントンのようなどこか掴み所が定まらないタイプが向いていたと考えられる。幕末の西郷隆盛に相当すると考えるべきかもしれない。後世に伝わる桜の木を切り倒した事実を正直に伝えたとするエピソードが実話ではないことに象徴されるように、ワシントンはアメリカ人が理想とする指導者像に神格化された典型例といえよう。
ワシントンの下で副大統領だったアダムスが大統領を一期務めた後、第3代にジェファーソン、第4代にジェームス・マディソン、第5代にジェームス・モンローとバージニア州出身の大統領がそれぞれ二期続き、19世紀初頭の四半世紀はバージニア王国がアメリカを支配したともいわれる。ワシントンはこれらの先輩格に当り、バージニア・マフィアの親分だったと見た方が実像に近いのではないだろうか。
(続)
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日時: 2009年08月06日 10:18 | パーマリンク
