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2009年08月06日 10:23に投稿されたエントリーのページです。他にも多くのトピックエントリーがあります。メインページやアーカイブページをご覧下さい。
« 大統領の評価(上)~ジョージ・ワシントン~:塚越 至 | メイン | アメリカ事情 (August 7, 2009):塚越 至 »大統領の評価(下)~エブラハム・リンカーン~:塚越 至
ケンタッキー州公認会計士 塚越 至
南北戦争勃発時の南北合わせたアメリカの人口は三千百万人強だった。現在の人口の十分の一に相当し、リンカーンの責任範囲の規模はワシントン時代のほぼ十倍だったことになる。
リンカーンは1809年2月12日に、ケンタッキー州中央部の現在はホッジェンビル市が存在する地の郊外で生まれた。ワシントンと誕生日が一日違いのために2月2週目の月曜日は「大統領の日」として公の機関や学校では祭日扱いにしている。
現在は国立公園に指定されている生誕地は急斜面の地で農耕に不向きなことから、2歳の時に一家は近くの別の地に引越しをした。ここにもリンカーン一家が暮らした丸太小屋が復元されて保存されている。その丸太小屋が面した道路がそこから北に位置するルイビル市から南下しテネシー州のナッシュビル、そしてミシシッピー川に面したメンフィス市に通じる旧街道で、幼年時代のリンカーンは鎖につながれた黒人奴隷がこの街道を往来するのを目撃している。
奴隷制に反対だった父親の希望で一家はリンカーンが7歳の時にオハイオ川を渡ったインディアナ州南部に移住した。当時はオハイオ川の南では奴隷制が存続し、北側では禁止されていたからだった。この地でリンカーンが9歳の時に、生母のナンシーが毒草を食べた乳牛のミルクが原因で死亡している。
その3年後に父親が3人の子供を抱えた未亡人のサラ・ブッシュと再婚。リンカーンにとっては継母になるが、このサラはリンカーンとその姉を自分の子供以上に扱い、リンカーンもこの継母を実母のように慕った。リンカーンの読書好きはサラが読書を勧めた結果で、リンカーンのその後の人生に大きな影響を与えたことになる。
1828年、6フィート4インチの身長に達した19歳のリンカーンは友人とミシシッピー川を下ってニューオリンズを訪れた。リンカーンが外界に接した最初の旅で、そこで奴隷市場の様子を見たリンカーンは奴隷制反対の意向を益々強くした。1830年、一家は肥沃な地を求めてイリノイ州のディケーター市から15キロ離れた地に再び移住した。翌年、22歳のリンカーンは独立し、その2年前に開拓されたばかりのイリノイ州ニューサーレムに移住した。
その秋、リンカーンは州議会議員に立候補した。この政治家への最初の挑戦では13人の立候補者中8位に終わり落選している。その後雑貨商の共同経営に携わったが生憎の不景気に遭遇し商店は破綻、郵便配達人の職にありついたリンカーンは、その地の測量士の職を兼ねながら郵便配達をすることで選挙区をくまなく歩き回った。その効果があって、後の共和党の基礎のひとつになったウィッグ党から出馬した1834年の二度目の立候補では当選している。当時のイリノイ州都だったバンダリア市からスプリングフィールドに州都を移す活動に力を貸し、リンカーンも1837年には新たに州都になったスプリングフィールド市に移住し、この地がその後のリンカーンの拠点となった。
1842年にはケンタッキー州の中心地だったレキシントン市の有力者トッド家のメアリーと結婚している。リンカーンはメアリーとの間に4人の子供をもうけているが、このメアリーは気が強い性格に買物狂が重なり、リンカーンの結婚生活は必ずしも安泰したものではなかった。3人の子供を疾病で失った後のメアリーは強度のノイローゼに陥り、大統領の死後唯一生存していた息子のロバートによって精神病院に隔離され孤独のまま寂しく死去している。このロバートは寝台車や展望車のメーカーで知られた大手企業プルマン社の社長を務めた実業家だったがメアリーの死にも立ち会った形跡がない。リンカーンが何故このような極端に性格の異なる女性と結婚したかについては色々憶測されている。その直前に初恋の女性が病死する不幸な出来事があったのは史実だが、筆者はリンカーンが政治家としての名声を得る手段として政界に知られた有力者の娘と結ばれた一種の政略結婚と見ている。
1846年、リンカーンは連邦下院議員に立候補し当選、議員としては当時の民主党選出のジェームス・ポーク大統領による対メキシコ戦争を不法な対外拡大策と批判した。しかしポークの後任に就任したウィッグ党選出のザッカリー・テーラー大統領の新味のない政策に失望したリンカーンは下院議員を一期で退き、その後はスプリングフィールドで弁護士業に専念している。1855年、周囲の薦めで連邦上院議員に立候補した。リンカーンはこの選挙で落選したが、選挙運動中の各地の演説で奴隷制反対を主張したリンカーンの存在は広く知られることとなった。1856年にはイリノイ州の共和党創立に貢献している。
このように幼少時代からの体験もあり奴隷制度には一貫して反対の姿勢を貫いたリンカーンではあるが、当時のリンカーンの奴隷制反対の考え方は後世に伝えられるものとは少々異なることは注目すべきである。
当時のアメリカの潮流を代表する政治思想は、ジェファーソン以来の南部を基盤とするプランテーション経済の維持と、労働力を土地に固定し地主の利権確保を支持する民主党の政策に対し、19世紀はじめからの産業革命によって急拡大した軽工業や商業を基盤とする北部経済下で潤沢な労働力を提供し得る人の自由な移動を唱える共和党の考えが対峙していた。リンカーンの考えは、自助(Self-help)、私有地獲得の奨励、そして個人は経済的に自立すべきとする当時のフリーソイルと呼ばれた思想から出ていて、人が土地に固定されることを否定した。リンカーンの奴隷制反対は倫理観よりも、人は自由意志で職業や住居を選択する権利を擁するとする思想から出たものを考えるべきであろう。その証拠に、リンカーンは黒人奴隷は白人たちとは異なる人種、むしろ劣等な人種と考えていたこと、白人並に平等に扱うことや混血には否定的な態度だったこと、そして黒人に選挙権を与えることにも反対で、陪審員や公職に就くことにも賛同していなかった。
南北戦争は緒戦で北軍が拙劣な戦いを重ね、その形勢はリンカーンに不利な状態が続いた。1862年9月に至り待望の勝利を得るや、これを奴隷解放宣言の格好の機会と捉えたリンカーンは1963年1月1日にその宣言を出している。注目すべきは、北軍の占領下にあったニューオリンズの奴隷は解放の対象としなかったように、この奴隷解放宣言は、南軍占領地の奴隷だけを開放していることだ。南軍統治下の地に混乱を起こす戦略的な意図を持っていたことが鮮明である。
リンカーンは幼少時から奴隷制度には否定的だったが、今日の自由民権思想と同じレベルで当時のリンカーンの姿勢を見ると間違いを犯すことになる。リンカーンは黒人に対しては同情心を抱いてはいたが、その奴隷解放の考えは人は皆平等と考える高邁な人権擁護の思想から出たものではなかった。北部経済に代表される急激に台頭しつつあった資本主義経済を支える資本と労働力の流動性を実現するには、黒人を土地に縛る奴隷制度は障害であり社会を安定させることは出来ないという卓見した先見性から出たものだった。リンカーンの偉大さは、政治家として冷静に世相を見極めていたその政治家資質にあるといえよう。
奴隷開放宣言はしたものの、南北戦争が長期化し北部でもリンカーンの評価は厳しく、南部ではリンカーンを独裁者と呼ぶような始末で、リンカーン自身は1864年の大統領選挙への再出馬を諦めかけていた。世間もリンカーンは敗退するか出馬しないだろうとの見方が大半だったが、1863年7月の関が原の戦いに相当するゲティスバーグ戦で北軍が勝ち、南軍が事実上崩壊したことによって辛くも再選を果たしている。現役時代のリンカーンに対する市民の評価は現代から見るとはなはだ低いものだったことになる。
ベスト一位と二位を占める大統領でさえ後世の評価との間にはこのような差が存在する。他の大統領の評価も後世の思惟に左右されたものと考えるべきであろう。
(完)
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日時: 2009年08月06日 10:23 | パーマリンク
