<?xml version="1.0" encoding="UTF-8"?>
<feed xmlns="http://www.w3.org/2005/Atom">
   <title>一般コラム</title>
   <link rel="alternate" type="text/html" href="http://www.abps-us.org/g_column/" />
   <link rel="self" type="application/atom+xml" href="http://www.abps-us.org/g_column/atom.xml" />
   <id>tag:www.abps-us.org,2010:/g_column//2</id>
   <updated>2010-02-26T02:59:44Z</updated>
   
   <generator uri="http://www.sixapart.com/movabletype/">Movable Type 3.33-ja</generator>

<entry>
   <title>小林慶一郎（経済産業研究所上席研究員）ユーロが生んだ金融危機の種（朝日）｜文責：中村正董（まさのぶ） </title>
   <link rel="alternate" type="text/html" href="http://www.abps-us.org/g_column/2010/02/post_22.html" />
   <id>tag:www.abps-us.org,2010:/g_column//2.202</id>
   
   <published>2010-02-26T02:58:17Z</published>
   <updated>2010-02-26T02:59:44Z</updated>
   
   <summary>（ユーロは地域経済統合の画期的成果とされているが、財政は個別で通貨が同一であることの危険性が、ここで指摘されている。新鮮な視点である。）

英独仏の株価、ユーロの大幅な下落が起きた：　原因と影響
昨年末から、ギリシャの財政危機が発覚。欧州経済が動揺している。
年明けから英独仏の株価、ユーロ（対円）が１０％前後の大幅下落。
０８年リーマンショック直後から欧州財政問題が次の危機との憶測あり。
欧州財政危機は、日米の株価にも一時大きな悪影響を及ぼした。
欧州財政危機の主因は世界的金融危機。金融機関救済、景気刺激等</summary>
   <author>
      <name></name>
      
   </author>
         <category term="特別寄稿" scheme="http://www.sixapart.com/ns/types#category" />
   
   
   <content type="html" xml:lang="ja" xml:base="http://www.abps-us.org/g_column/">
      （ユーロは地域経済統合の画期的成果とされているが、財政は個別で通貨が同一であることの危険性が、ここで指摘されている。新鮮な視点である。）

英独仏の株価、ユーロの大幅な下落が起きた：　原因と影響
昨年末から、ギリシャの財政危機が発覚。欧州経済が動揺している。
年明けから英独仏の株価、ユーロ（対円）が１０％前後の大幅下落。
０８年リーマンショック直後から欧州財政問題が次の危機との憶測あり。
欧州財政危機は、日米の株価にも一時大きな悪影響を及ぼした。
欧州財政危機の主因は世界的金融危機。金融機関救済、景気刺激等
 
欧州経済の脆弱性：　ユーロと言う「共通通貨」の問題点
欧州経済は、財政悪化に対し、日米より脆弱である。
「共通通貨」とは、経済学的には「固定相場制」と実質的に同性格。
戦後長く、世界の通過はドルとの交換比率を固定する固定相場制。
現在の欧州はユーロという人工通貨に自国通貨を１対１で固定したもの。
固定相場制では通貨の価値保証は各国政府で、その信頼性は財政健全性にかかる。
財政悪化は通貨危機を呼ぶ。９７年アジア、その後のアルゼンチン等、ドルペッグの国の財政悪化が原因。今回のギリシャも類似状況が起きた。
緊縮財政で財政再建か、ユーロからの離脱（固定相場の放棄）が選択肢
 
欧州の困難性と支援組織の矛盾：　ギリシャだけではない
ギリシャの経済は弱い。自力での財政再建は困難。欧州大国支援必至
ギリシャだけではない。ポルトガル、スペイン、イタリアなど財政問題深刻
市場の疑心暗鬼は広がっている。
安心感の回復には欧州連合（EU）の財政支援の包括的枠組みが必要
しかし、それは、EU各国の財政の独立性、主権を制限することになる。
今後かなりの期間、世界経済は欧州問題で不安定な動きになるだろう
 
アジアに活発で信頼できる金融市場を：　欧米の存在感が圧倒的
アジアが製造業で稼いでも、欧米の金融資産に投資せざるを得ない。
活発で多様な金融・通貨市場がアジアに必要な時が来た。　　（了）
      
   </content>
</entry>
<entry>
   <title>普天間問題と日米同盟（朝日）～ジョージ・パッカード氏の証言～｜ 中村正董（まさのぶ）</title>
   <link rel="alternate" type="text/html" href="http://www.abps-us.org/g_column/2010/02/post_21.html" />
   <id>tag:www.abps-us.org,2010:/g_column//2.201</id>
   
   <published>2010-02-21T23:22:13Z</published>
   <updated>2010-02-21T23:23:08Z</updated>
   
   <summary>（パッカード氏とはジョンズ・ホプキンス大学院長の時にワシントンでお会いしたことがある。その後新潟の国際大学学長をした。彼は長年ライシャワー大使を支えてきた人。米日財団理事長。７７歳）...</summary>
   <author>
      <name></name>
      
   </author>
         <category term="特別寄稿" scheme="http://www.sixapart.com/ns/types#category" />
   
   
   <content type="html" xml:lang="ja" xml:base="http://www.abps-us.org/g_column/">
      （パッカード氏とはジョンズ・ホプキンス大学院長の時にワシントンでお会いしたことがある。その後新潟の国際大学学長をした。彼は長年ライシャワー大使を支えてきた人。米日財団理事長。７７歳）


      普天間は過剰反応。より深刻な危機、何度もあった。
実態以上、必要以上に騒がれてしまっている。
６０年安保、ヴェトナム戦争などの同盟の危機とは比較にならない。
基本的な議論（沖縄にあの規模の基地が必要か、想定する敵は誰か、北朝鮮や中国をどう見るかなど）を日本国内でするのが先決。
ライシャワー（６１～６６年日本大使）の持論は「米軍の拠点は必要だが、この規模は不必要」だった。
 
ライシャワーは「日本人特殊論」を危惧した。
ラ大使は在日軍・民米国人の「占領者気分」を発見、警戒・危惧した。
日本も「被占領者気分」を未だに引きずっているところがある。イラク戦争の時、仏独のように反対論陣を張れなかったのもその証左。
ラ大使は、常々、国際舞台で堂々と英語による議論が出来るリーダーがゾロゾロ必要。日本人は自国を特殊だと病的に思い込んでいる、と言っていた。日本人の日本人論を終わりにすべきだと。他国民と同質だと。
 
ラ大使の東アジア観とパ氏の見解：　
中国の研究者として、大使は米と日中韓の関係を円として理解した。当時の米国では画期的だった。
パ氏は日中接近は米の、中米接近は日本の利益になると考える。
米国の沖縄基地の目的は共産中国から台湾を守ること。が、この危機は大きくならなかった。北朝鮮政策で米中日が足並み揃えば極東の緊張は一気に緩和される。そうなれば、沖縄の米軍大基地は不要になる。
 
日米密約とラ大使：
大使は自分が関係した密約が機密扱いされ続けたことに落胆していた。
８１年に自ら公表した。会見はパ氏が設営した。歴史学者として、外交史実を説明しておきたかったのだと思う。
   </content>
</entry>
<entry>
   <title>米国流通の変遷（２）｜岩谷英昭</title>
   <link rel="alternate" type="text/html" href="http://www.abps-us.org/g_column/2010/02/post_20.html" />
   <id>tag:www.abps-us.org,2010:/g_column//2.197</id>
   
   <published>2010-02-12T06:34:50Z</published>
   <updated>2010-02-12T06:37:27Z</updated>
   
   <summary>前号では、デジタルのユビキタスワールドでは日本の家電メーカーは、販売面において力が発揮できていないと厳しく批判しましたが、その意味はチャンスがないということではありません。...</summary>
   <author>
      <name></name>
      
   </author>
   
   <category term="16" label="松下幸之助" scheme="http://www.sixapart.com/ns/types#tag" />
   <category term="25" label="流通" scheme="http://www.sixapart.com/ns/types#tag" />
   
   <content type="html" xml:lang="ja" xml:base="http://www.abps-us.org/g_column/">
      前号では、デジタルのユビキタスワールドでは日本の家電メーカーは、販売面において力が発揮できていないと厳しく批判しましたが、その意味はチャンスがないということではありません。




      元来、狭い所にひしめき合って生活を数千年続けてきた訳ですから、人間関係においては大変センシティブで相手の気持ちを考える「おもてなしの心」と言う他の国ではあまり耳にしない文化が醸造されました。


実はこのDNAを使ったウエブ状の販売ネットワークが半世紀以前にコンピューターの力を使わないで存在したことを今回紹介しましょう。


松下幸之助は「販売は技術の様に理論的にノウハウを蓄積できない、行きやすい、買い易いということは感性である」と言う様な表現をしており、顔となる松下電器の「お客様第一」の感性あるお店を「ナショナルショップ」と呼び、ピーク時には「ナショナル」商品の専売をする店として全国に２００００店以上創りました。さらにナショナルブランドを中心的に販売いただける混売店を「ナショナル店会」と呼び１５０００店創りました。


一部の競争メーカーからは「ナショナル商品は新製品発売から展示と販売で十万台は売れる」と羨ましがられました。


このネットワークこそアナログ版、顧客のデータマインです。なぜなら、このウエブ状販売ネットワークのお店のお客様は、「くらしの泉」会というメンバーに自動的に加入になり、夏、冬には松下電器よりプレゼントの配布がその年のお買い上げ金額にスライドした形でなされました。物資の乏しい時代には何かと話題性のある贈り物となり家庭を賑わかしたものです。


メンバーに登録する際には、家族構成、職業、年齢、推定収入まで提携ホームで記載するが、それ以後は、日日の訪問、配達、修理の際に家人と交わす会話から、卒業、入学、結婚、出産というドラマの日程まで掴むことができ、都度都度、販売のチャンスが生まれました。


押し売り販売は決して長続きするものでなく、相手が心を開いてくれる中に、タイミング良く役に立つものを提案することです。これを「パーミッションマーケッティング」と呼んだアメリカの学者もおりましたが、生きた情報が常にアップデートされ、タイムリーな提案が販売につながることが大切です。


WEBビジネスは常に購買をPCデータベースに、お客様の好み、バイイングパワーをつかみ、投網式に次のビジネスも独り占めするわけですから、同じように「パーミッションマーケティング」と言えるでしょうが、心のつながり、ブランドロイヤリティーはアナログ式とはいえ松下幸之助方式は負けてなかったように思えます。


「ナショナルショップ店で買うと、電池でも電球でも届けてくれる、テレビの配達の際には取り付けはもとより、家具の移動まで手伝ってくれる」等の感謝の言葉を私自身新入社員教育プログラムのショップ店で３カ月の実習期間中に耳にしたことは、いまだに誇りを持って人に「松下電器がいかにお客様を大切にしたか」伝えられます。


今日、隣の中国と製造、販売面で国際競争しても賃金格差は超えられない現実であって、冒頭にふれた「もてなしの心、顧客ネットワーク創り」「そこから得られるキメの細かい商品提案」をグローバル競争に生かしていくことが、日本のメーカーとして生き残りのチャレンジではないでしょうか。 
   </content>
</entry>
<entry>
   <title>米国流通の変遷（1）｜岩谷英昭</title>
   <link rel="alternate" type="text/html" href="http://www.abps-us.org/g_column/2010/01/post_19.html" />
   <id>tag:www.abps-us.org,2010:/g_column//2.196</id>
   
   <published>2010-01-30T06:29:45Z</published>
   <updated>2010-02-12T06:34:35Z</updated>
   
   <summary>皆様は昨年末のクリスマスショッピングは、伝統的な動物園のように混雑するショッピングモールに行きましたか？　それともPCの前で、ワイングラスを片手にWEBショッピングを楽しみましたか？...</summary>
   <author>
      <name></name>
      
   </author>
   
   <category term="87" label="TV" scheme="http://www.sixapart.com/ns/types#tag" />
   <category term="25" label="流通" scheme="http://www.sixapart.com/ns/types#tag" />
   
   <content type="html" xml:lang="ja" xml:base="http://www.abps-us.org/g_column/">
      皆様は昨年末のクリスマスショッピングは、伝統的な動物園のように混雑するショッピングモールに行きましたか？　それともPCの前で、ワイングラスを片手にWEBショッピングを楽しみましたか？


      <![CDATA[やはり気分的には巨大なお城のようなモール、流通業界の専門用語で「ブロック＆モルタル」、つまりコンクリート造りの巨大な建物に各種の小売店がひしめき、特別大売り出しの活気ある状況が師走らしいかもしれませんね。このような風物誌は、アメリカにおいては歴史が古く、モータライゼーションの発展に伴い住宅が郊外に広がったことにより、広大な土地に大規模ショッピングモールが建設されました。


今までは限られたダウンタウンの周辺の住民が買い物をしていましたが、車に乗って何マイル、何十マイルもドライブするようになってきました。　私の友人で巨大小売全国チェーンのCEOはお客が驚くコンセプトの店を作ると半径２５マイルぐらいからお客は集まると豪語し、２５０，０００スクエアーフィートの店をポートランド郊外に造り、みごと失敗しました。やはり常識的には半径２～３マイルという所のようです。この十年ぐらいはあまり肥大化しない、効率のいいサイズのショッピングセンターにカテゴリーとキラーと呼ばれる、各種専門カテゴリーのディスカウント店が集まる、パワーモールが全米各地にみられます。具体的には電機業界ではベストバイ、サーキットシティー（昨年倒産）スポーツ用品ではスポーツオーソリティー、おもちゃのトイザアスのような所です。


単独では１００，０００スクエアーフィートを超える、ウォルマート、ターゲット、Kマートという様なバリューリテイラーが全米各地に見られます。このような大規模店は一店がモールと同じようなファンクションを持ち、食料品を含む大抵のものを扱っています。そしてお店の中の一部にクリーニング店、靴の修理，花屋が入っていたり、スポーツ用品部門では、釣り、狩猟のライセンスまで登録でき場所によってはお店自体が小さな町の機能を持ち合わせています。 
ところがこのような流通が革命的に大きな変化を始めました。前号で紹介したとおりWEBの販売が占める率が電気関連の流通の８６％を超える、トップ２０社の中ですでに２１％になりました。 
これは消費者の好みが多様化する中、エレクトロニクスの様に、デジタル化により同じチップ、デイスプレー、ソフトウエアーを使ってあることにより、品質が安定してきています。さらに複雑、多岐に渡るフィーチャーの分析もネット上で調べた方が、お店の店頭に行くよりは客観的に詳しく分析できます。


代表的なものとしてはデジタルカメラではないでしょうか。


<strong>カメラの購入者は、画素数、ズームパワー、ディスプレーのサイズ</strong>


デザイン、ブランドでほとんど決めているようです。その上で防水機能とか動画の取り組みができるという様な付加価値を加味していけば、間違いなく自分の欲しいものに到達します。

その上、フェデックス、日本の宅急便はオーバーナイトの配送を可能にしています。さらにアップル社の様にグローバルロジステックスのできる会社は労働賃金の安い中国で本体、アクセサリーを生産在庫して注文に応じ、アメリカまで３日で配達を可能にしており、在庫金利を含むコストダウンに成功し、販売利益ともに独り勝ちの状況です。


それにも勝るWEBマーケッティングの成功はお客様のデータマイニングではないでしょうか？次のMAC,　iPot,　iPhoneのみならず、数々の新製品、新ソフト、アクセサリーが独占的に顧客にアプローチできます。アップル社はメーカーとして世界最大の顧客リストの保持社になりつつあります。 


日本も３DTV,、ブルーレィーDVDというような世界をリードする商品を市場導入していますが、単にハードだけのビジネスからシステムでお客様を囲い込む，全方位型の利益の出る取り組みを考えるべきではないでしょうか？

]]>
   </content>
</entry>
<entry>
   <title>学習環境の激変　～英語が出来ないと就職できない！～: マークなかむら</title>
   <link rel="alternate" type="text/html" href="http://www.abps-us.org/g_column/2009/11/post_18.html" />
   <id>tag:www.abps-us.org,2009:/g_column//2.188</id>
   
   <published>2009-11-13T05:38:05Z</published>
   <updated>2009-11-13T05:39:03Z</updated>
   
   <summary>先日、私が教えていた新潟大学から呼ばれて、法学部のシンポジュームに出ました。私が勤めていたのは留学生センターでしたが、法学部に頼まれて、英語でのゼミをやっていました。留学生と日本人学生が半々位で、とて...</summary>
   <author>
      <name></name>
      
   </author>
         <category term="特別寄稿" scheme="http://www.sixapart.com/ns/types#category" />
   
   
   <content type="html" xml:lang="ja" xml:base="http://www.abps-us.org/g_column/">
      先日、私が教えていた新潟大学から呼ばれて、法学部のシンポジュームに出ました。私が勤めていたのは留学生センターでしたが、法学部に頼まれて、英語でのゼミをやっていました。留学生と日本人学生が半々位で、とても楽しいゼミでした。用語は全て英語のみです。アフガニスタンの紛争について、パキスタンの留学生が回教徒の立場から熱心にその背景などを説明し、皆が英語で議論しました。今でも、充実した時間であったと思います。



      先日のシンポジュームは、そうしたバイリンガルな教育を１５年に亘り実施してきた法学部が、その成果を自己評価しようということでした。パネリストは教師だった英国、フランス、米国からの三人の先生でした。結論はあまり芳しいものではありませんでした。「あまり効果がなかった」というような話になりました。理由はいろいろ挙げられましたが、１）タテマエとホンネがちがいまーす、「英語はたいせつ」はタテマエになっている、２）ホントウのインセンティブがアリマセン。がくせいは正直です。とアメリカの先生が言っていました。日本の英語教育は、この先生の言う通りの問題がずっと続いて来たと思います。ロシアが似ています。この前、内モンゴルの大学の先生に会いましたら、同じだと言っていました。さっぱり、英語はうまくならない、とこぼしていました。


日本では英語を習っても、使う場所がほとんどない。それだけ、独立した、確りした経済だったということです。フィリピンや香港に行けば、英語は日常語です。昔植民地だったのが影響しています。この基本的な環境が、音を立てて崩れてきたな、と思うのが、今回の世界大恐慌と、日本経済の矮小化です。残念ですが、東洋では、中国の影が急に大きくなり、日本の存在はどんどん小さくなって来ています。１９６０年代の英国が似たような姿でした。「大英帝国は終わった」、「英国病だ」と言われました。私は丁度その頃ロンドンに駐在していましたが、日本からのビジネスマンは「もう英国に学ぶことはない」と言いました。いまの中国の人が同じような感じを日本に持ちつつあるのではないかと思います。日本の経済はどんどん小さくなり、日本では物が売れません。外国で一生懸命売って命をつなぐ時代になりました。さあ、英語が出来ないで、何がこれから出来るでしょうか？皮肉なことに、日本がダメになって来て、「英語は大切」がホンネに変わってきました。インセンティヴも確り出来ました。これから大切なのは、「どうしても言いたいこと」を持っているかです。「意見」を持っているか、が問われます。話せるのは当然の能力として必要です。さて、９月は欧米の大学の新学期です。日本でもセメスター制を導入してそれに合わせています。内モンゴルも同じとのことです。頑張りましょう！
   </content>
</entry>
<entry>
   <title>尻の穴を舐めて出世する法ー曲説異文化比較考：廣川謙一</title>
   <link rel="alternate" type="text/html" href="http://www.abps-us.org/g_column/2009/10/post_17.html" />
   <id>tag:www.abps-us.org,2009:/g_column//2.185</id>
   
   <published>2009-10-20T18:36:09Z</published>
   <updated>2009-10-20T18:40:20Z</updated>
   
   <summary>こちらのコラムはPDFになります。 以下のURLよりダウンロード下さい。 ファイルをダウンロード ...</summary>
   <author>
      <name></name>
      
   </author>
         <category term="特別寄稿" scheme="http://www.sixapart.com/ns/types#category" />
   
   
   <content type="html" xml:lang="ja" xml:base="http://www.abps-us.org/g_column/">
      <![CDATA[こちらのコラムはPDFになります。
以下のURLよりダウンロード下さい。

<a href="http://www.abps-us.org/g_column/ketsu.pdf">ファイルをダウンロード</a>
]]>
      
   </content>
</entry>
<entry>
   <title>これまた日米の違う点: 塚越　至</title>
   <link rel="alternate" type="text/html" href="http://www.abps-us.org/g_column/2009/10/post_16.html" />
   <id>tag:www.abps-us.org,2009:/g_column//2.184</id>
   
   <published>2009-10-19T00:20:01Z</published>
   <updated>2009-10-19T00:23:11Z</updated>
   
   <summary>ケンタッキー州公認会計士　塚越　至  しばらく以前に日本で、経済産業省が中小企業の金融を支援する信用保証協会の機能を大幅に拡充する方針を固めたことが報じられた。日米共に大企業だけが経済を支えているわけ...</summary>
   <author>
      <name></name>
      
   </author>
         <category term="特別寄稿" scheme="http://www.sixapart.com/ns/types#category" />
   
   
   <content type="html" xml:lang="ja" xml:base="http://www.abps-us.org/g_column/">
      ケンタッキー州公認会計士　塚越　至 

しばらく以前に日本で、経済産業省が中小企業の金融を支援する信用保証協会の機能を大幅に拡充する方針を固めたことが報じられた。日米共に大企業だけが経済を支えているわけではなく、中小企業を支援する策は大いに結構なことだ。


       しかし、政府による当然の政策として報道されるこのような支援をアメリカで目にすることは皆無に近い。そのため、アメリカは大企業志向が強く、強者に甘く弱者に冷ややかなお国柄であるとの批判を受ける根拠にされ勝ちである。 
 それだけにオバマ政権に移行して以来の景気浮揚策に含まれる連邦政府による零細・中小企業を対象とした支援策は、アメリカでは例外的な出来事でアメリカ史にも記憶されることに違いない。最近の具体例では、資金繰りに苦しむ零細企業に対して3万５千ドルを限度に５年間融資する政策がある。


 米小企業庁（Small Business Administration）が市中の金融機関に対して返済補償をし、その上で5年間の貸し出し金利を連邦政府が負担するもので、対象になる企業は、金融機関からのローンの返済に遅滞が出ている、あるいは仕入や経費の支払いに恒常的な遅れがあり、クレジット会社に対して多額の借入残を持つもので、健全な企業は対象から外されている。筆者が事務所を置くケンタッキー州ルイビル市でもこの一ヶ月の間に３件の申請を手伝った。 


 なぜアメリカではこのような連邦政府による国策がまれな存在なのかを理解することは、当地で事業を始める際の大切な予備知識のひとつと考えられる。 



　ことはアメリカ建国の経緯に遡ることになる。1776年に独立宣言を発した際のアメリカとは、“13個の州の集まり”に過ぎず、アメリカ国は存在しなかった。これは大英帝国が独立戦争に敗れたことを認めた1783年に至っても同じことで、その時点でもアメリカ国は存在していなかった。


 しかし、州の緩やかな集まりだけでは対外的に不都合であること、また、それ以上に切羽詰った問題として、独立戦争に費やした戦費を賄うために各植民地が担った莫大な借金を返済せねばならなかった。内外の債権者からの突き上げに対して植民地の財力では限りがあったことから、連邦政府を設けて広く税を徴収し借金の返済に充てることが緊急の課題だった。

 こうして1787年にフィラデルフィアに集まった各州の代表によってアメリカ憲法が起草され、翌年から各州が順次批准をして、ここにようやくアメリカ国なる合衆国が生まれた。


 この憲法起草の過程で議論が集中したのは、連邦政府に与える権限の範囲だった。独立戦争以前の大英帝国による圧政の記憶が生々しい当時、連邦政府が大英帝国の再現になることを怖れた各代表は、強力な中央集権国家に繋がり得る事項をことごとく排除した。


 その妥協の産物として生まれたのが、大統領府の設置と、憲法に加えて最小限に止められた連邦法の施行だった。こうして連邦政府の権限は非常に狭い範囲に限定され、また連邦法の及ぶ範囲も同じく多くの制限下に置かれることとなった。 
　この連邦法の限定を語る典型的な一例が、株式会社法であろう。州内にしか流通しない株券を発行する企業は、日本にお馴染の連邦法のひとつである米証券取引法は適用されない。今日、州内だけにしかその株券が流通しない企業は零細企業に限定されるが、それにしてもこれらの企業は各州が定めた州法によってその活動が規制されているだけで、ワシントンには一切の手出しが許されていない。


 地方県の企業が経済産業省や金融庁の管理下にないと想定すれば、この州法によるアメリカ流管理の特殊性が理解できよう。この州内企業が法律違反をすれば州内の裁判所で争われ、連邦裁判所は管轄外に置かれたままだ。 
　これは株券の流通だけでなく、州と州にまたがって行われるビジネス、いわゆる州際取引でない限り、通常の取引もすべて各州が定める州法の規定に従うことになる。


 この連邦法と州法の対立から生まれたアメリカならではの最高裁の判例が存在する。これは東部の某有名大学で起きたフットボール選手による女学生への暴行事件に対する判例だ。


 州裁判所に訴えて敗訴した被害者側はその地にある連邦裁判所に上訴し、連邦裁判所が被告人に有罪の判決を下した。この判決に不満の被告人側が最高裁に訴え出た例で、最高裁では、女学生への暴行事件は州内のことで連邦裁判所が裁定を下すのは憲法違反として、女学生側の敗訴が決定している。


　事件の内容ではなくいわば手続き上の理由で退けたわけだが、連邦の権限が如何なる制限下に置かれているかを語る好例であろう。


　冒頭に記した経済産業省による中小企業への支援策に相当するものは、通常はアメリカでは各州がそれぞれの判断で行うことになる。この種の支援策を実施する州もあれば、行わない州も存在する混在した姿がアメリカの規則となっている。全国に一斉に通用する国策が存在しないのは、この連邦の権限を最小限に限定したアメリカ建国の精神の表れといえるだろう。 


　上記の経済産業省の支援策のひとつに、中小企業が金融機関に売掛債権を譲渡して現金化しやすくさせる支援策が含まれている。日本では90兆円に及ぶ中小企業の売掛債権のうち、受取手形は17兆円にとどまるといわれる。73兆円もの債権は直ぐには現金化されないため、多くの中小企業では支払期日まで待つことになり、運転資金の確保に苦労することになる。


　この打開策として信用保証協会が中小企業の売掛債権を保証して金融機関が買い取り易くするのが狙いで、中小企業にとってはありがたい支援策となる。しかし、元々取引先は信用力が弱いために手形が組めなかったわけで、売掛債権そのもののリスクがこの支援策によって軽減されるわけではなく、信用保証協会が負うリスクはかなりのものに達することになる。当然、その損失は国庫からの負担になり、結局は納税者である国民の負担に帰すことになる。


 更に、経済産業省では中小企業再生ファンドへの出資を解禁して、中小企業の再建にも手を差し伸べることがこの支援策には盛り込まれている。ここでも再建途上でのリスクを国民が負うことになる。 
 中小企業を支援し経済の活性化を図ることは大いに結構なことで、その狙いは素晴らしいが、最終的に尻拭いを免れない国民の声はどうなのだろうか？


 アメリカの建国当事者が怖れたのは、このように目的は素晴らしいものの、国民の知らないところでその国民が負担するリスクを議論する国家権力そのものの存在だった。


 それだけにオバマ政策のような連邦政府が前面に出て州の頭越しに政策を推し進めることに対しては根強い批判が存在する。アメリカ政治の行く末を見通すためにもこのアメリカ建国以来の歴史を念頭に置くべきである。 
   </content>
</entry>
<entry>
   <title>鮨とマグロを考える：塚越　至</title>
   <link rel="alternate" type="text/html" href="http://www.abps-us.org/g_column/2009/09/post_15.html" />
   <id>tag:www.abps-us.org,2009:/g_column//2.183</id>
   
   <published>2009-09-21T20:16:43Z</published>
   <updated>2009-09-21T21:58:42Z</updated>
   
   <summary>ケンタッキー州公認会計士　　　塚越　至    　先年、日本の食料自給率が40％を割ったことが報じられた。アメリカは農畜産物の純輸出国であるのに対して、日本では日々の食卓に並ぶ食材の６割は海外からの輸入...</summary>
   <author>
      <name></name>
      
   </author>
   
   
   <content type="html" xml:lang="ja" xml:base="http://www.abps-us.org/g_column/">
      ケンタッキー州公認会計士　　　塚越　至 
 

　先年、日本の食料自給率が40％を割ったことが報じられた。アメリカは農畜産物の純輸出国であるのに対して、日本では日々の食卓に並ぶ食材の６割は海外からの輸入品ということになる。
      
 江戸前鮨も例外ではない。鮨ネタの大黒柱はマグロだ。日本近海で獲れる天然物が減る一方でその殆どを海外に依存するこの鮨ネタこそ、自給率の足を引っ張る主犯格のひとつに違いない。
　

 当地のような日本文化と直接の接点に欠ける地でも、スーパーマーケットにプラスチックに詰められた持ち帰り鮨が登場するようになった。今や「sushi」は普通名詞として定着し、お陰で「wasabi」まで通用する時代だ。この最大の要因は、マグロの養殖が普及して食材としてどこででも手に入るようになったからだろう。 
　鮨は寿司、時には「すし」とも書かれる。鮨を解説した書や情報誌の説明によると、語源は鮨の原型だった保存食の酢を混ぜた「酢飯」だそうだ。めが欠落して「すし」になったことから平仮名が正統派で、鮨は旨い魚、寿司は寿が司ると、それぞれお目出度いことに端を発した当て字だったことになる。


　鮨の起源は東南アジアの山地民族が利用していた魚の保存法が中国に渡り、その中国から日本に渡来したとするのが通説になっている。その日本では琵琶湖周辺で始まった鮒の馴れ鮨が千年の歴史を持つ最も古いものとされている。日本の鮨の本来の姿は関西で主流の押し鮨だった。


　広沢虎造の浪曲に、清水次郎長の子分、森の石松が四国八十八箇所の巡礼を終えた帰途、浪速から淀川を京に上る場面が出てくる。あの広く知られた、「鮨、食いねえ」の台詞だ。あれも握り鮨が未だ普及していなかった大阪のこと故、石松が手にしていたのは箱鮨だったことになり、筆者が幼少時代に抱いたイメージとは異なる。 
　江戸前鮨の起源には色々の説があるようだ。17世紀半ばに起きた江戸の大火の際、非常食として握り飯の上に具を載せたものを被災者に配ったのが始まりとする説もあるが、今日、鮨と呼ばれる握り鮨は、案外歴史が浅く19世紀の発明だったようだ。


　目の前で握ったご飯の上に魚を載せて客に差し出す方式を最初に編み出したのは、19世紀初頭に江戸の下町である両国の地に店を出した花屋与平といわれる。やがて与平の鮨屋が侍の間で評判になると握り鮨を提供する店が数多く出現した。当時の鮨はいわばオヤツ代わりのスナックで、多くは屋台形式で今のようなレストラン方式ではなかった。ファーストフーズはアメリカが本場とされるが、この鮨だけでなく、屋台のおでん、夜鳴き蕎麦など、ファーストフーズの発想は江戸から明治にかけての日本の方がずっと先輩格といえる。かっては東京都内でも見かけた焼き芋の屋台などは最高傑作の部類であろう。 　多くの鮨屋が存在した東京の下町は関東大震災で大部分が消失した。そのため、失業した鮨職人が東京を脱出し各地に散ったことから江戸前鮨が日本全国に広まることとなった。



　震災から立ち直った昭和初期の東京にはおよそ３千軒の鮨屋が存在したが、その三分の一近くが屋台方式だったそうだ。しかし、昭和14年、当局が衛生と道路交通上の理由から規制のための条例を出すとこの鮨の屋台は廃業に追いやられ、今のようなレストラン方式が一般的となった。 
 屋台では握る方が座り、客は立ち食いだったが、レストラン方式になってからは鮨職人が立って鮨を握り客がカウンターに座る今のスタイルが定着した。今日でもカウンターで食べることを鮨業界では「立ち」と呼ぶことに昔の姿が残っている。



　江戸前風の握り鮨を注文すると二貫出てくるのが通常だが、これは限られたネタしかなかった戦後の食料難時代に客に喜ばれるように二個出したのが始まりとされ、江戸時代からの伝統ではなかったことが面白い。 
　鮨ネタとして欠かせないのがマグロ、それもトロだ。ところが、マグロは長い間脂肪分の多い下種な赤身魚として嫌われ、赤身を醤油で味付けして鮨ネタとして利用していた。トロ（トロけるの省略形）が持て囃されるようになるのは戦後の事で、どうもその理由は、食文化のアメリカ化の一環で日本人も牛肉を好むようになり、それまで見捨てられていた脂身が好まれることになったためらしい。松阪や神戸牛の霜降りとトロは同時代の産物と考えられる。今までに検索した資料類でも、大正時代以前にトロがネタとして登場した記録はないとされている。漱石や鴎外の作品にトロが登場しないのもうなずける。 　そのマグロだが、魚業界に詳しい知人の説明では、普通に鮪と呼ばれるものはクロマグロを指すが、キハダ、ビンナガ、メバチなどもマグロの仲間だそうで、切り身を一見しただけでは一般人には見分けが容易ではないといえる。


　クロマグロは別名ホンマグロとも呼ばれ、若魚は群れをなして回遊するが成魚になると日本近海に戻る習性がある。しかし、最近は漁獲量が減る一方で、旬の冬に青森沖で捕獲されるものは最高級品として高価格で取引される。輸入品は冷凍されたものが多いが、広く知られたボストン沖の天然物や、後述するオーストラリアや、クロアチアやスペインなどの地中海沿岸で養殖されたものが生の状態で空輸されてきた。


　ミナミマグロは遠洋漁業の発達で日本の食材になった南半球が漁場のマグロで、インドマグロや豪州マグロとも呼ばれる。マグロ類では一番脂の乗りが良く、一時は鮨ネタの主流を占めたほどだ。



 メバチは日本近海のものはその味はクロマグロに劣らないと定評だ。これも天然物が減り、豪州や南アジアから空輸された鮮魚が利用されているが、太平洋、インド洋、大西洋、地中海などで捕獲された冷凍物が多い。


 ビンナガは日本の近海物が主で、鮮魚として出荷されるものが多い。、味は他のマグロに劣るが低価格のために、スーパーや外食産業のマグロのほとんどはこのビンナガで占められているそうだ。


 キハダは年を通して広い海域で捕獲され、脂身が少ないために鮨のネタよりは刺身用とされているマグロだ。アメリカのスーパーに陳列されている切り身はこれと考えられる。 
　高度成長のお陰で日本の食文化に余裕が出るにしたがって鮨を楽しむ機会が増えると、鮨ネタの主力であるマグロの需要も急速に拡大した。日本の遠洋漁業の技術が進歩しマグロを追って地中海にまで日本の漁船が出没して話題になったものだ。しかし、これらは冷凍物で鮮魚は漁獲量が低下する一方だった。 
　海外から生のマグロを空輸しようと試みた先駆者は日本航空の貨物部門だった。貨物部門の商圏を拡大するには図体の大きなマグロは最適な貨物と考えられたからだ。


 米国東海岸の最北端にメイン州がある。そのメイン州沖からニューファウンドランド島周辺に掛けては大西洋でも有数の漁場のひとつである。その一部にカナダ領のプリンス・エドワーズ島沖の漁場がある。小説「赤毛のアン」の舞台で知られるこの島の漁民は、網に掛かるマグロを厄介者扱いをして銃で殺していた。


 1960年代の北米では、西海岸やニューヨークには日本人ビジネスマンを相手に日本食レストランが既に存在し、その鮨カウンターでは生の魚が提供されていたが、一般の消費者にとっては魚は缶詰で、アメリカ人やカナダ人には魚を生で食する習慣はなかった。赤身のマグロの利用方法がなく厄介者扱いを受けたのは当然で、このマグロを生で空輸する案には島の漁民は首を傾げるばかりだった。 
 説得の結果ようやく漁民の協力を得て、国内便でニューヨークに空輸し、そこからJALのＤＣ８型貨物機で羽田に空輸する構想が動き出したのは1970年代の初頭だった。築地の魚市場に捕獲してから数日の鮮魚のマグロを届けるのが狙いだった。


 魚は大気に触れると鮮度が落ちて変色し商品価値が急減する。市場が受け入れるようなレベルを実現すべく、輸送中の冷蔵方法など試行錯誤が重ねられた。その努力の結果、1972年８月14日に築地市場内の東都水産によってカナダ産のマグロが初の競に掛けられた。


 日本周辺の天然物が減る一方で、海外からは冷凍物に依存していた鮨業界が、北米から空輸された鮮度の高いマグロを得るようになって鮨ブームを加速することとなった。高度成長の結果、所得倍増が実現し庶民の食生活に余裕が出たことも鮨ブームにプラスになった。その頃の筆者は東京駅前の丸の内が勤務地だったが、築地市場内に立ち食いの鮨カウンター店が出現し、職場の同僚と昼食に鮨を食すべくタクシーを飛ばしたものだ。 
　世界中の天然物のマグロを追い回した日本の漁船団も、需要が拡大する一方で漁獲量が減じ始め、そこで投入されたのが養殖マグロの構想だった。


　オーストラリア南海岸の中央部から東寄りにポート・リンカーンの港町がある。日本のエビ漁の基地でもあったが、1970年代には日本資本が地元と組んでこの海域で捕獲されるマグロを日本向けに送り出す基地に使用していた。


 しかし、天然物の漁獲量が低下したことに危機感を抱いたオーストラリア政府が1984年に捕獲枠を設定したこともあって、日本で研究開発されたマグロの養殖が投入された。近畿大学の研究陣による貢献が広く知られている。この養殖の試みは大成功で、一万四千人の住民に占めるマグロ関連の就労人口が二千人にも達し、ポート・リンカーンの町にはマグロ成金が出現するまでになり、ゴールド・ラッシュならぬツナ・ラッシュと呼ばれるほどだった。 
 戦後、世界各地の海域で漁獲量が急増した結果、カリフォルニア沿岸の鰯、ペルー沖のアンチョビ、カナダ沿岸の鱈などが濫獲によって姿を消す事態に陥った。日本向けのマグロに関しても資源保護を訴える声が起き、1969年に大西洋や地中海沿岸の諸国によって国際取り決めがなされ、「大西洋マグロ資源保護委員会（ICCAT）」が設立された。日本も署名している。

 1999年、ICCATは地中海におけるマグロ漁獲の規制枠を設けた。OPECのマグロ版ともいえるこの規制枠にしたがって各国の取り分が定められている。しかし、OPECほどの結束は見られず闇取引が横行しているのが実情のようだ。特に、養殖が盛んな地中海では、各国が自己申告した値の倍近い養殖が行われているといわれ、その大部分が日本に向けて出荷されている。


 衛星が撮影した海域の映像に、ICCATには報告されていない養殖池の丸い輪が浮き上がり問題にされたり、寄港が許されない港で冷凍マグロが積み込まれ、その船が日本の港に入港したことが目撃されるなど、スパイ映画もどきの出来事が繰り広げられている。つい最近も欧州諸国がマグロの輸出規制の一段の強化を唱え、マグロ価格高騰の恐れが報道された。マグロは、最早、単なる鮨ネタではなく、国際関係を左右する戦略物資のひとつになっているのだ。 
　アメリカの鮨メニューにあって日本にはないものに「カリフォルニア・ロール」がある。海苔巻きはその黒い色と「sea weed」という語が災いしてアメリカでは鮨通でも避ける傾向が強い。しかし、接着剤としての海苔無しでは巻物は出来上がらない。そこで考えられたのが、焼き海苔を広げたその上に鮨飯を広げると、それをひっくり返して海苔の上に具を載せて巻く方式だった。これで黒い海苔は内部に巻かれて姿を消し、巻物も鮨メニューに残ることとなった。


　具にカリフォルニア産のアボカドを使用するなどアメリカ人の食感に訴えたこのカリフォルニア・ロールは、アメリカ中の鮨レストランで定番のひとつになっている。日本の事情に疎い市民のなかには、これこそがスシだと誤解している者も少なくない。


　このカリフォルニア・ロールを誰が最初に考案したかには諸説があるようだが、1964年にロスの日本人町であるリトル・トウキョウに出現した、鮨バーを加えた日本食レストランだった東京會舘の鮨職人が最初にメニューに加えたとするのが有力な説のようだ。


　リトル・トウキョウは映画スタジオに近いこともあり、かってはオードリー・ヘップバーンなどの人気スターが頻繁に訪れ、アメリカでの鮨ブームの先駆けとなった地である。 
　アメリカの鮨レストランは今や日本人が少ない地方都市でも目にするようになった。これらの店では日本人でないスシ職人が多くなり、中には女性が握る店もある。それでも、一人当りの負担額が割安でないために誰でもが訪れる大衆レストランとは考えられず、アメリカ人で盛況な地方の鮨レストランは、弁護士や専門職などが多い州都や大学町など、所得が中程度以上の中堅都市に限られている。同じオリエンタル料理でもアメリカ各地に存在する中華レストランとは対照的だが、その中華チェーン店でもバイキングスタイルのメニューにスシを加えるところが増えた。


 日本人が多く、日本事情に明るい米人が住む大都市には高級を謳い文句にした鮨レストランがある。ニューヨークのマンハッタンやラスベガス、ロッキー山中の高級リゾート地であるアスペンなどには、目の玉が出るほどの勘定書に遭遇する超高級鮨レストランも存在する。 
 鮨の食べ方については特に規則は存在しないとされているが、アメリカ人向けの解説書では、白身や貝類など、味がさっぱりしたものから始め、次に、エビや鮭、ウニやイクラ、ハマチなど、そして、メインにマグロやトロを味わい、最後に卵、となっているものが多い。


 しかし、これをこなすことの出来るアメリカ人は余程の日本食通で、通常は貝類や白身を敬遠する傾向が強く、その上、ウニやイクラもダメで、結局、マグロを少々と巻物というのが行き着くところのようだ。卵も進んで好む者は少ない。鮨ブームといわれるものの、アメリカのスシは所詮この程度である。 
 最近はカウンターで、「ジンジャー下さい」とか「グリーンティーをお願い」とかを耳にする時代になった。「がり」や「むらさき」、「おあいそ」などは死語となりつつあるが、代表的なリーンな食品としてスシの国際化が進むことは喜ぶべきであろう。


 何でも扱う総合商社に入社したものの配属先は機械部門で食品とは縁が薄く、その上、この十数年は日本食レストランさえ存在しないケンタッキー州南部の片田舎に住んでいることから、一級の鮨から遠のいて久しい。かって住んだシカゴ、ニューヨークのマンハッタンやカリフォルニアのオレンジ郡では頻繁に堪能したものだ。カウンター越しに蒐集した鮨に関するネタから思いつくまま拾い書きしてみた。


 近年出版された英文の書では、「The Sushi Economy」Sasha Issenberg著 Gotham Books出版（2007）が好書である。昔勤務した商社の関連企業が、地中海から密かに回航された闇のマグロを清水港で受取った、というくだりも現れ、日米の鮨業界の詳細を紹介した書として話題になった。巻末に掲載された関連書も有益な資料である。上記の記述の一部も本書より引用したものであることを断って置く。

（完）
   </content>
</entry>
<entry>
   <title>世界の潜水艦乗りの集まり：鶴亀　彰 </title>
   <link rel="alternate" type="text/html" href="http://www.abps-us.org/g_column/2009/09/post_14.html" />
   <id>tag:www.abps-us.org,2009:/g_column//2.181</id>
   
   <published>2009-09-13T21:10:52Z</published>
   <updated>2009-09-13T21:11:58Z</updated>
   
   <summary>今日は昼にUSSVI(United State Submarine Veterans, Inc.)とISA(International Submarine Association)参加者合同で戦争や事...</summary>
   <author>
      <name></name>
      
   </author>
         <category term="特別寄稿" scheme="http://www.sixapart.com/ns/types#category" />
   
   
   <content type="html" xml:lang="ja" xml:base="http://www.abps-us.org/g_column/">
      今日は昼にUSSVI(United State Submarine Veterans, Inc.)とISA(International Submarine Association)参加者合同で戦争や事故で亡くなった潜水艦乗りへの思いを新たにし追悼する式典が開かれました。アメリカも第二次世界大戦で５０数隻の潜水艦を失ったそうですが、その大半は日本軍の駆逐艦や潜水艦、航空機、機雷当によるものでした。それらによる追悼の祈りの後、ISA参加国の同様の死者に対して追悼しました。私がたった一人参加しただけですが、日本の潜水艦死者に対しても全員が祈りを捧げて呉れました。 
       
USSVIは同じ潜水艦乗り仲間の死を忘れないように毎年この追悼式典を行っているそうです。今日の追悼式典に参加している間中、私の頭の中には東京の東郷神社の境内の中にある潜水艦慰霊碑や佐世保にある潜水艦慰霊碑が浮かんでいました。日本は第二次世界大戦で１２７隻の潜水艦と１万人以上の乗組員を失いました。私の父もその中の一人です。 
 

夜は空母ミッドウェイの甲板で晩餐会が開かれました。昨日のブログでUSSVIとISAの合同晩餐会と言いましたが、そうではなく、晩餐会はISA参加者だけのためでした。世界１７ヶ国の潜水艦関係者が名残惜しそうに五日間最後のプログラムを楽しんでいました。実に和気藹々としたお互いの思いやりや友情に溢れた集いでした。１７ヶ国の代表が壇上に上がり、それぞれが短い感謝の言葉を述べました。 

 
私も日本を代表して何か喋れとの事で、私ごときがおこがましいと思いながら、私以外には日本からの参加者が誰もいないので、アメリカ在住ながら、日本を代表し、挨拶する事になりました。私は皆さんが日本の１万人以上の潜水艦乗組員に対して祈りを捧げて頂いた事に感謝しました。そして皆さんの友情が今は天上にいるであろう彼らに伝わる事を期待すると述べました。大きな拍手が起こりました。
 
 
個人個人はそれぞれ平和を望む極めて友好的で善良な人々です。自国への強い愛国心と誇りを持っています。付き合えばお互いに信頼出来る良き人々です。ところが一旦国と国の戦いが始まれば、これらの善良な人々が敵同士となり、お互いを殺し合う事になります。いかに国の指導者達の責任が大きいか実感します。善良な人々を殺人競争に追いやらないように、戦争を起こさないように、全力の努力をして欲しいものだと思いました。 
 

私は求められるまま、日英蘭三つの潜水艦家族の間に結ばれた深い友情を参加者全員に伝えました。私の英語でのスピーチはフランス語とロシア語に通訳されました。父を三歳の時に失ったものの、現在はオランダに妹が、そしてアイルランドには父がいると伝えたら、満場の拍手を頂きました。過去の恩讐を越えて和解し、深い友情を戦争第三世代の孫達までもが結んでいる事実が、戦争の悲惨さや平和の有り難さを知る彼らに希望を感じさせるものとして響いたようです。 
   </content>
</entry>
<entry>
   <title>民主党のマニフェスト：中村正董</title>
   <link rel="alternate" type="text/html" href="http://www.abps-us.org/g_column/2009/09/post_13.html" />
   <id>tag:www.abps-us.org,2009:/g_column//2.177</id>
   
   <published>2009-09-10T16:27:40Z</published>
   <updated>2009-09-10T16:29:12Z</updated>
   
   <summary>選挙で大勝利を収めた民主党のマニフェスト（選挙公約）は、一体、どのようなものでしょうか。国民の関心が、高まっておりますが、このマニフェストの中身はどのようなものなのでしょうか。朝日新聞に掲載されたもの...</summary>
   <author>
      <name></name>
      
   </author>
         <category term="特別寄稿" scheme="http://www.sixapart.com/ns/types#category" />
   
   
   <content type="html" xml:lang="ja" xml:base="http://www.abps-us.org/g_column/">
      選挙で大勝利を収めた民主党のマニフェスト（選挙公約）は、一体、どのようなものでしょうか。国民の関心が、高まっておりますが、このマニフェストの中身はどのようなものなのでしょうか。朝日新聞に掲載されたものから、その要旨をまとめてみました。直近の話題では炭酸ガス排出量の２５％減などがあります。これから、一つ一つ政治課題として大きく取り上げられるでしょう。 
      政策関連：
１）　「行政刷新会議」：　行政刷新会議とは、政府の全政策・支出を検証するものであり、国家公務員の総人件費2割削減を目標とする。

２）　国と地方：　地方への「ひも付き補助金」廃止し、地方が自由に使える「一括交付金」とする。国と地方の協議の場を法律に基づき設置する。

３）　郵政株式売却凍結法：　郵政株式売却凍結法を速やかに成立させ、郵政事業4分社化も見直す。 
経済関係：
内需主導型：　　輸出主導型から内需主導型へ舵取りを変え、日本経済を転換して、安定成長をめざす。
中小企業：　中小企業の為に、法人税率引き下げる。
製造現場派遣：　製造現場への派遣社員制度を原則的に禁止する。
最低賃金：　最低賃金については、全国平均1千円を目指す。
高速道無料化：　高速道路の料金の割引率を順次拡大していき、影響を確認しつつ無料化する方向へ持って行く。
CO2排出量：　CO2の排出量を20年迄に25%減。50年迄に60%超減を目標とする。（90年比）
 
一次産業対策：
戸別所得補償制度：　戸別所得補償制度として、農畜産物の販売価格と生産費の差額を基本に販売農家に対して実施する。　畜産・酪農業、漁業にも所得補償制度を導入する。
 
教育・厚生関係：
子ども手当：　子ども手当については、中学卒業まで１人年間31万2千円を支給する制度を創設する。（10年度半額）
公立高授業料：　　公立高の授業料相当額を助成する。
生活保護母子加算：　生活保護母子加算を復活させる。
年金：　「消えた」「消された」年金対策を国家プロジェクトにする。年金制度の一元化を実現する。
後期高齢者医療制度：　後期高齢者医療制度を廃止する。
社会保障費：　社会保障費の2200億円の削減方針を撤回する。
介護労働者：　介護労働者の賃金を月額４万円引き上げる。
 
外交関係：
米国：　　FTA交渉を促進する。
国連：　　PKOなどに参加して、平和の構築に役割を果たす。　　

中村正董（まさのぶ）
   </content>
</entry>
<entry>
   <title>衆院選 民主大勝関連の数字：中村正董</title>
   <link rel="alternate" type="text/html" href="http://www.abps-us.org/g_column/2009/09/post_12.html" />
   <id>tag:www.abps-us.org,2009:/g_column//2.176</id>
   
   <published>2009-09-10T16:25:28Z</published>
   <updated>2009-09-10T16:27:25Z</updated>
   
   <summary>日本の衆議院の選挙は、民主党の大勝利に終わりました。自民党に対する国民の不満が、この結果に結びついたと思われます。この選挙の結果の内容を分析すると次の通りです。これから民主党に関するニュースが増えます...</summary>
   <author>
      <name></name>
      
   </author>
         <category term="特別寄稿" scheme="http://www.sixapart.com/ns/types#category" />
   
   
   <content type="html" xml:lang="ja" xml:base="http://www.abps-us.org/g_column/">
      日本の衆議院の選挙は、民主党の大勝利に終わりました。自民党に対する国民の不満が、この結果に結びついたと思われます。この選挙の結果の内容を分析すると次の通りです。これから民主党に関するニュースが増えますが、基本の数字が参考になると思います。 


      当選者数
　　　　　　　選挙前比　小選挙区　　比例区

民主　３０８　＋１９３　　　２２１　　　　８７

自民　１１９　－１８１　　　　６４　　　　５５

公明　　２１　－　１０　　　　　０　　　　２１

共産　　　９　　　±０　　　　　０　　　　　９

社民　　　７　　　±０　　　　　３　　　　　４

みんな　　５　　　＋１　　　　　２　　　　　３

国民　　　３　　　－１　　　　　３　　　　　０

日本　　　１　　　＋１　　　　　１　　　　　０

大地　　　１　　　±０　　　　　－　　　　　１

無所属　　６　　　±０　　　　　６　　　　　－

計　　　４８０　　　　　　　　　３００　　　１８０

 
当選者４８０人の分類（括弧内は０５年）
世襲　　　　　　官僚　　　　　地方議員　　　女性　　　平均年齢

７５人（118） 　６８（81） 　１１７（117） 　５４（43）　　 ５２．０（52.3）

 
小鳩チルドレン（初当選者・朝日）１４３人の分類
永田町・霞ヶ関系　　　　　　地方系　　　　　　民間系

（官僚・政治家秘書など）　　（首長・県議など）　　（経営者・会社員など）

３３人（43.9才）　　　　　４０人（49.9才）　　　　７０人（43.4才）

 
記録列島（初めての記録）
当選率最高：　今回民主の93.3%過去最高（過去最高05年自民86.5%）
選挙区得票最高：　鳩山由紀夫（北海道９区）201,461票（05年小泉純一郎197,037票）
選挙区空白都道府県：　自民１３
新顔当選最多：　１５８人（96年115人）
前議員落選数最多：　１８５人（96年106人）
元職返り咲き最多：　５６人（96年36人）
世襲当選数最少：　７５人（96年122人）　


中村正董（まさのぶ）


   </content>
</entry>
<entry>
   <title>再選確実だった現職大統領の足を引っ張った男 (塚越　至 )</title>
   <link rel="alternate" type="text/html" href="http://www.abps-us.org/g_column/2009/09/post_10.html" />
   <id>tag:www.abps-us.org,2009:/g_column//2.174</id>
   
   <published>2009-09-07T16:07:15Z</published>
   <updated>2009-09-07T16:11:51Z</updated>
   
   <summary>ケンタッキー州公認会計士　塚越　至  大統領の予備選が今ほど大きな影響力を持たなかった20世紀前半は、共和党、民主党双方の党大会で大統領候補者を確定するのが伝統だった。...</summary>
   <author>
      <name></name>
      
   </author>
         <category term="特別寄稿" scheme="http://www.sixapart.com/ns/types#category" />
   
   
   <content type="html" xml:lang="ja" xml:base="http://www.abps-us.org/g_column/">
      ケンタッキー州公認会計士　塚越　至 

大統領の予備選が今ほど大きな影響力を持たなかった20世紀前半は、共和党、民主党双方の党大会で大統領候補者を確定するのが伝統だった。


      　民主党選出で国際連盟の生みの親として知られる第28代ウッドロー・ウィルソンが1921年に２期目を終了し、後任に共和党選出のワーレン・ハーディングが就任した。この大統領は２年目にアラスカに出掛け、そこで食べた蟹の食中毒が治り切らないうちに肺炎に罹り病死してしまった。持病の高血圧が直接の死因だった。


 副大統領のカルビン・クーリッジが大統領に就任、再選を果したが、その次の大統領選では党内で勢力を拡大したハーバート・フーバーが選ばれ、1929年、31代目の大統領に就任した。こうして1921年以来、共和党が政権を持続したままで、大恐慌の最中だった大統領選挙の年1932年に至った。国民の間で絶大な人気を維持したままの現職大統領フーバーが、有力な対抗馬を擁しない民主党を破り次期大統領に再選されるものと広く語られていた。 


　ラスベガスの郊外に巨大なコンクリート製のダムが聳え立つ。ロッキー山脈を水源にし、途中でグランドキャニオンを流れ下るコロラド川をせき止めたフーバーダムだ。膨大な流量のコロラド川はミシシッピー川と並んで昔から広範囲に及ぶ氾濫を繰り返し、周辺の住民を苦しめてきた。その川をせきとめ、水害を無くすとともにその豊富な流量を利用した発電と、ネバダやカリフォルニアの乾燥地への灌漑を目的に1936年に完成したこのダムは、高さが220メートルに達する。


　このダムにその名を残すフーバー大統領は、1874年、アイオワ州のクエーカー教徒だった鍛冶屋の息子として生まれた。ところが父親が心臓麻痺で6歳の時に、そしてその２年後には母親が腸チフスがもとの肺炎で死んでしまい、孤児になったフーバーは11歳の時にオレゴン州の叔父の下に送られて育った。


 叔父を助けて不動産業を開業し帳簿付けを手伝っていたフーバーは、1891年に開校したばかりのスタンフォード大学に入学し地質学を専攻した。学費を自ら稼ぐ苦学を重ねて1895年に卒業すると鉱山会社に就職し、地質分析の専門家として国内の鉱山で働いた後にはオーストラリアや中国での鉱山業に従事した。中国では義和団の乱に巻き込まれたことさえあった。 


　こうして海外生活を送っていたフーバーはロンドンに滞在中に第一次大戦に遭遇、アメリカ政府が中立の立場だったために欧州に滞在中だったアメリカ市民を戦禍から救済するための組織を創出してその長になった。やがて組織はアメリカ市民だけでなく欧州全域の戦災者の支援に活動を広げ、フーバーは組織の長として獅子奮迅の活躍をした。


 アメリカが参戦すると、時のウィルソン大統領がフーバーをホワイトハウスに招いて食糧長官に任命した。その後は戦後の復興活動にかかわり、こうして大きな組織を効率良く運営する能吏として広く知られるようになった。ハーディング政権では商務長官を務めている。


 クーリッジ大統領の後任に就任したフーバーへの国民の支持の高さはこのようなそれまでの華々しい公私にわたる実績があったからで、巨大なダムにその名が冠されたのも当時のこの大統領の名声の高さを語っている。 
 1932年初めには景気回復の兆しはあったが1929年に始まった大恐慌が収まらずアメリカ国民は大変な困難に直面していた。それだけにこの有能な現職大統領に優る人物は出現しないものと信じられ、再選は疑問視されることがなかった。


 その大統領選挙に民主党選出の対抗馬として名乗りをあげたのが当時のニューヨーク州知事フランクリン・ルーズベルトだった。1882年生まれのルーズベルトは39歳だった1921年に小児麻痺に罹り、自力では歩行も困難で、世間では大統領の激務に耐え得る人物とは見られていなかった。


 共和党から選出されて20世紀初頭の8年間、第26代大統領を務めたセオドア・ルーズベルトの従兄弟にあたるフランクリンは、元大統領の姪であるアンナ・エレノア・ルーズベルトと結婚していたが、両家は折り合いが悪く、所属する政党も異なることから元大統領の筋からの支援を得ることもなく、フランクリンの周辺でも大統領選は苦戦と見られていた。


 現在のような予備選がなかったこの時代には民主党候補の選出は6月末にシカゴで開催された党大会に持ち込まれた。その党大会でも数度の投票の後も過半数を制する候補者が現れず、大票田であるカリフォルニア州がルーズベルト支援に回りようやく大統領候補を選出する醜態を演じた。ただ、ルーズベルトは後に大きな意味を持つ行動をこの時に取っている。


 それまでの候補者は党大会には出席せず地元で待機するのが慣しだった。シカゴで開かれた党大会の結果をイリノイ州の州都スプリングフィールドで待ち望んだリンカーンの例がそれを語っている。候補者は選出されると鉄道を利用して会場に向かうために受諾演説は数日遅れが当たり前だったが、ニューヨーク州都オーバニーで朗報を手にしたルーズベルトは党大会の責任者に、直ちに飛行機でシカゴに飛び翌日に会場で受諾のスピーチをしたいと申し出た。これを耳にした会場を埋める代議員たちから歓声が沸きあがったという。リンドバーグの大西洋無着陸横断飛行からわずか5年。飛行機は安全な手段とは考えられていなかった。取り巻き陣でさえ無謀な行為と非難したが、ルーズベルトにしてみれば身体障害者のイメージを払拭すべく命掛けの賭けだった。


 しかしこの程度でフーバー現職大統領楽勝のムードを覆すことはなく、共和党政権の継続を予想する論評がマスコミを埋めた。 
 ところが、ここに思い掛けない事件が降って湧いたのだ。


 フーバーは財政均衡を最重視して緊縮財政に拘り続けた。6月には裕福層からの税収増を狙って法人税、相続税などへの累進課税を採用する法案に署名している。クエーカー教徒の家庭に育ち欧州の戦災復興に辣腕を振るったフーバーらしく、富裕層にも相応の負担をさせることによって財政再建を図ろうとしたのだ。


 事件は、第一次大戦終了直後に欧州に従軍した軍人への恩給として政府が発行した証券に絡むことだった。この政府が発行した証券は1945年に換金可能なボーナス証券だったが、恐慌で生活費に苦しむ退役軍人たちから支払いを繰り上げるように要求が出されていた。議会の一部にも救済を考慮すべきであろうとの動きが出ると、これを支持する元軍人たちによるデモが首都で繰り広げられた。


 ２万人に達するデモは軍規を身に付けた元軍人にふさわしい統率のとれた静かなものだったが、フーバーが均衡財政を崩すことになる換金を拒否し、上院もこれに同調すると、一部の参加者たちによって4夜連続で議事堂の周囲を行進し続ける「死の行進」と呼ばれた行為が起き、支援する他のデモ隊員たちが議会への階段を占拠する事態に至った。占拠しているデモ隊の退散のために出動した首都警察とデモ隊との小競り合いが起きた7月28日、混乱の最中に一名のデモ隊員が死亡してしまった。


 こうした事態の解決にフーバー大統領は政府軍の出動を要請した。フーバー自身は軍の出動には積極的ではなかったが、フーバーの閣僚に対する日頃の姿勢はコンセンサスを求めるもので、早期解決を主張する閣僚陣の意見を尊重したものだった。 
 ホワイトハウスの要請はデモ隊が野営用に設営していたテント村に退役軍人たちを押し戻すことだった。ところが、出動した政府軍は司令官の大将が騎馬で指揮に当り、部下たちはサーベルを抜いて退役軍人を蹴散らし、催涙弾の投入をも命じる強硬手段に訴えた。司令官直属下にいたパットン中将は戦車を6台も出動させる過激ぶりだった。


 独立戦争、南北戦争を通じてアメリカには退役軍人の処遇には特別の感情を抱く伝統がある。国の要請に応えて大西洋を渡り欧州での激戦に従軍した退役軍人たちを、犯罪者の如く扱ったこの軍の出動は全米に大きく報じられ、国民からは一斉に非難の声が沸きあがった。


 恐慌で苦しむ市民の感情を逆なでするこの事件は、それまでフーバーを支持してきた選挙民の心を一挙に引き離すこととなった。フーバーの部下の判断に任せる常日頃のマネージメント・スタイルが軍人たちの過激な行動を許し、それまで再選が確実視されていた大統領に対する信頼は坂道を転げるように地に堕ちてしまったのだ。


 こうしてその秋の選挙では、落選確実ともっぱらの下馬評だったフランクリン・ルーズベルトが現職大統領に大差で勝つ結果となった。 
 現在は11月の大統領選挙で選出された次期大統領は翌年1月中旬に就任するが、当時は就任は３月はじめだった。この3ヶ月余の間、人気凋落のフーバーは恐慌対策立案に次期大統領のルーズベルトとを取り込むべく工作を繰り返した。しかしルーズベルトはそれに乗らず、２月には12日間のカリブ海周遊にヨットを繰り出して政権末期の混乱から距離を置いた。後年の老獪ぶりが既に現れている。


 12日間の周遊を終えマイアミに上陸したルーズベルトは歓迎の観衆に応えてオープンカーで滞在予定のホテルに向かった。その時、オープンカーの後部座席に座るルーズベルトをニュージャージー州出身の失業者が至近距離からピストルで暗殺しようとした。犯人は観衆の列の背後で密かに機会を待っていたが、その犯人の隣で椅子に乗り次期大統領を一目見ようとしていた女性がよろけたために5発発射された弾はルーズベルトを外れ、その一弾が後続の車に乗るシカゴ市長に命中した。シカゴ市長は党大会では反ルーズベルトに徹した人物だったが、たまたまマイアミに滞在中でこの車列に加わったのだった。 
 警護陣の指示でルーズベルトを乗せた車が全速で現場を離れようとすると、ルーズベルトは二度に渡ってそれを制止し、重傷のシカゴ市長を傍らに乗せ病院まで付き添った。シカゴ市長は数日後に死亡するのだが、この冷静沈着なルーズベルトの行動は直ちに全米に報道され、神がもたらした新大統領だと唱える者まで出現した。飛行機を利用した勇敢な男は、政敵に対してさえ冷静沈着な配慮をする人物だと、為すことすべてが好意的な反応を呼ぶこととなった。


 就任するや「最初の100日」として知られる短期間にフーバー政策とは180度異なる数々のニューディール策を投入して恐慌を収拾し得た背景には、このような市民の支持があったからだ。


 後にアメリカ史上では唯一の４選を果す大統領の出現は、退役軍人に対する軍の常軌を逸した暴挙が起きなければ実現不可能であったと考えられる。世間の予想通りにフーバーが再選されていれば、アメリカの歴史も世界史も異なった過程を経ていたであろうし、日米戦争も違ったものになっていたはずだ。


 逃げ惑う丸腰の退役軍人たちを騎馬姿で蹴散らした大将とは、ダグラス・マッカーサーその人だった。そして上官の「軍事行動」を苦々しく見守ったのが後の大統領、アイゼンハワーだったのだから因縁とは不思議なものである。


                                                             (完)
   </content>
</entry>
<entry>
   <title>２００９年８月３０日（衆院選挙の日）官僚改革「官僚主導から政治主導へ」（田中秀征（しゅうせい）氏）の記事から：中村正董</title>
   <link rel="alternate" type="text/html" href="http://www.abps-us.org/g_column/2009/08/post_11.html" />
   <id>tag:www.abps-us.org,2009:/g_column//2.175</id>
   
   <published>2009-08-31T16:12:38Z</published>
   <updated>2009-09-10T16:24:32Z</updated>
   
   <summary>中村正董（まさのぶ） （田中氏は９３年細川内閣で首相特別補佐である。官邸で民意ならぬ「官意」で首相を動かそうとするやりかたをつぶさに見た。元経済企画庁長官。7.30.朝日） 　　　　　　　　　　　　　...</summary>
   <author>
      <name></name>
      
   </author>
         <category term="特別寄稿" scheme="http://www.sixapart.com/ns/types#category" />
   
   
   <content type="html" xml:lang="ja" xml:base="http://www.abps-us.org/g_column/">
      中村正董（まさのぶ）

（田中氏は９３年細川内閣で首相特別補佐である。官邸で民意ならぬ「官意」で首相を動かそうとするやりかたをつぶさに見た。元経済企画庁長官。7.30.朝日）

　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　
      １．「政治機能の強化」が突破口：

明治以来続いた「官僚主導」から「政治主導」への改革が今度の選挙の最大の争点である。その突破口は「政治機能の強化」しかない。「幕藩体制」を維持したら「明治維新」は無かった。「高度成長期の統治構造」（政治と行政の仕組み）を変えないと、新しい「時代」は生まれない。「冷戦体制」と「拡大経済の枠組み」が崩れた９０年代初頭から先送りしてきた「重要課題」を、やっと「俎上」に乗せた感じである。 


２．オーストラリアの８０年代の成功例：

オーストラリアは大掛かりな「行政改革」、「官僚改革」を断行し、成功させた。日本とよく似た「議院内閣制」で学ぶ点が多い。オーストラリアの首相は、「官僚に会わないだけでなく、電話にも出なかった」に強い印象を受けた。オーストラリアの官僚改革の成功の最大の要因は「政治機能の強化」から着手したことである。「首相周辺から官僚を排除。民間人の同志の特別公務員で周りを固めた。」ことに、最大の成功の秘訣があった。 


３．首相秘書官制度の改革・事務次官人事を首相に：

日本は「官僚改革も官僚主導」で行われてきた。各省からの首相秘書官は「役所のスパイ」とある首相は漏らしていた。これが最大の障害であった。だから、官僚の改革の為には、政治家や民間人に代えることである。豪州改革の「最大の成果」は「事務次官の人事を大臣から首相に」したことである。大臣は官僚側の意向を尊重しやすい。結果として、「省益追求型」官僚が出世する。首相選択では、省益は二の次、広い視野の官僚が抜擢される。「人事権」こそ「政治機能の強化」の「核心」である。（会社の人事を社員が決めたら、社長には全く求心力がなくなる、のと同じ。）日本の従来の「改革」は上記が抜けており、むしろ、内閣の肥大化・複雑化を招き、官僚の権限を強めた面がある。「政治機能の強化」は①首相周辺を同志で固める、②官僚幹部人事権の掌握、に尽きる。　
   </content>
</entry>
<entry>
   <title>日本の将来：鶴亀　彰 </title>
   <link rel="alternate" type="text/html" href="http://www.abps-us.org/g_column/2009/08/post_8.html" />
   <id>tag:www.abps-us.org,2009:/g_column//2.167</id>
   
   <published>2009-08-17T18:20:01Z</published>
   <updated>2009-08-17T18:24:07Z</updated>
   
   <summary>大分前からですが、私は日本の将来について考えています。今回の米中会談の動きを見ながら、その思いは深まっています。私は政治家でも外交官でも何でもないのですが、海外に住む日本人の一人として、日本の今後のあ...</summary>
   <author>
      <name></name>
      
   </author>
         <category term="特別寄稿" scheme="http://www.sixapart.com/ns/types#category" />
   
   
   <content type="html" xml:lang="ja" xml:base="http://www.abps-us.org/g_column/">
      大分前からですが、私は日本の将来について考えています。今回の米中会談の動きを見ながら、その思いは深まっています。私は政治家でも外交官でも何でもないのですが、海外に住む日本人の一人として、日本の今後のありかたに付いて懸念を持たざるを得ない思いです。



      米国に次ぐ世界第二の経済大国として、日本は政治・外交・軍事的には弱いものの、それなりの誇りとまた評価を得て来ました。しかしその地位はもうすぐ中国に譲る事になるでしょう。米国債の最大の保有者の地位は大分前に中国に譲りましたし、貿易量や外貨保有高等においても大分前に抜かれてしまいました。 
 


中国は大きな国です。日本の人口の１０倍以上もあります。経済発展が今も年率７パーセント程度で進んでいる現状、中国が規模的には米国も抜いて世界一になるのもそんな遠くないかも知れません。安く物を作ったり、ＩＴやロボット等の先端技術の分野ではインドなども躍進を続けています。 


それらの動きの中で、日本はどのような確固たる戦略を持ち、これからの五十年、百年を方向付けて行くのでしょうか？　四季折々の美しい自然の中で育まれて来た日本人の高い美意識は今後も日本が培った職人芸と共に、物作りの分野では世界でも冠たる地位を持ち続けるでしょう。 


しかしそれだけでは十分でないように思います。消費者レベルでの従来の自動車や家電や工作機械や、造船業や重工業など過去の日本を支えて来た産業の国際競争力を維持すると同時に、新しい産業（環境・バイオ・エネルギー、水等）で世界の先端を行く必要があります。 


しかしそれは日本が経済発展維持のために何をやるか、どう言う方法でやるかの問題です。私はどう言う気持ち（考え）でやるかの問題がより重要なのではと感じています。それは日本人の心の問題です。お互いが信頼し、思いやりを持ち、助け合う社会を作ることが一番大切だと感じています。それには最近薄れつつある、自然への畏敬の念を取り戻す必要があると感じています。 


全てはそこから始まるのではと思います。宗教の宗派は何であれ、自然への畏敬があれば、自然に宗教心は生まれます。信ずる心があれば、不安も消えます。努力もします。そして西郷さんの敬天愛人ではないですが、他人に対しても尊敬と優しい心を持てるようになるでしょう。そしたら自然と不安が解け、希望が沸き、結果として満足が得られるのではないでしょうか？ 


経済発展を追い続け、１９６０年代からの日本のように、所得が増え続ければ、自然の畏敬や他人への思いやりなどなくても幸せになれると言う意見もあるかも知れませんが、物や金を追い求め、勝ち組になる事を目指す生き方には少なくても一部の人の満足はかなえられても、社会全体としての幸せには繋がらないと思います。急がば回れと言うか、自然への畏敬が鍵なのではと感じるこの頃です。（終り）
   </content>
</entry>
<entry>
   <title>アメリカに生きる: 鶴亀　彰</title>
   <link rel="alternate" type="text/html" href="http://www.abps-us.org/g_column/2009/08/post_7.html" />
   <id>tag:www.abps-us.org,2009:/g_column//2.166</id>
   
   <published>2009-08-17T18:17:16Z</published>
   <updated>2009-08-17T18:19:28Z</updated>
   
   <summary>今日は８０歳と７６歳になる、ある日本人夫婦の家を訪ねる機会がありました。夕食をご馳走になり、お二人のアメリカでの人生の物語をお聞きしました。ご主人の方は１９５５年に渡米しました。難民救済法に基づく日本...</summary>
   <author>
      <name></name>
      
   </author>
         <category term="特別寄稿" scheme="http://www.sixapart.com/ns/types#category" />
   
   <category term="82" label="アメリカ生活" scheme="http://www.sixapart.com/ns/types#tag" />
   
   <content type="html" xml:lang="ja" xml:base="http://www.abps-us.org/g_column/">
      今日は８０歳と７６歳になる、ある日本人夫婦の家を訪ねる機会がありました。夕食をご馳走になり、お二人のアメリカでの人生の物語をお聞きしました。ご主人の方は１９５５年に渡米しました。難民救済法に基づく日本からの農業移民でした。奥様の方は３年後にビザがおり、１９５８年に渡米しました。二人とも私と同じ鹿児島県出身です。 



      Ｍさんと言いますが、中部カリフォルニアのブドウ農園で働き、その後、鶏や七面鳥のオス・メスを鑑定する仕事を行いました。この仕事は手先の器用な日本人にはとても向いている仕事で、収入もとても良かったそうです。しかしやはり肉体労働であり、その後はロサンゼルスに日本から進出した証券会社の現地採用の社員となりました。１５年ほど前に引退し、その後は地域社会のための貢献に務めていらっしゃいます。 
 


その間にアメリカで生まれた三人の娘たちを育て上げ、それぞれは結婚し、立派な家庭を築いています。ところがその過程では色んな問題もありました。強い日本への愛国心を持つＭさんは娘たちが日本人ないしは日系人と結婚することを望みました。しかし長女が連れてきた恋人は中国系の若者でした。Ｍさんは大反対しました。何度も何度も二人して懇願され、ついに堪忍袋の緒が切れたＭさんは その若者の上に日本刀（Ｍさんは熱心な日本刀のコレクターです）を振り上げ、「どうしても結婚するなら、この刀で自分を刺してから結婚しろ」と言ったそうです。 
 


ところが白刃の下で爛々と目を輝かせる若者の愛情の強さに負け、「勝手にしろ」と刀を放り投げたそうです。二人は勝手にし、結婚しました。そして二人の可愛い子供が出来ました。Ｍさんは孫の誕生に喜び、とても良いおじいちゃんになりました。新しい息子となった中国系の若者とはすっかり仲良くなり、一緒に釣りに行ったりと、今では昔の自分の心境が自分でも理解出来ないそうです。 
 


一つの壁が壊れると、二人目、三人目は何の抵抗もなくなりました。次女はメキシコ系の若者を連れて来ました。三女はアイルランド系の若者を連れて来ました。今日では中国系の血を引く孫が二人、メキシコ系が五人、アイルランド系が二人、合計九人の可愛い孫がいます。義理の息子たちも中国系、メキシコ系、アイルランド系、いずれもとても良くして呉れているそうです。一緒に旅を楽しむ事も多いようです。 
 


鹿児島県の寒村から米国に渡り、恐らくこの地で終焉の時を迎えるであろうＭさんご夫婦ですが、お二人の命は日本人のみならず、中国やメキシコやアイルランドの命と一緒になりながら、この米国の地で、ずっと継承されて行くのだろうと思います。お二人が歩いて来られた人生の重みを感じながら、夜のフリーウェイを運転して帰りました。また明日の日曜日には二女の家族七人が遊びに来るそうです。（終り） 
   </content>
</entry>

</feed>
