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2008年10月01日 21:12に投稿されたエントリーのページです。他にも多くのトピックエントリーがあります。メインページやアーカイブページをご覧下さい。
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1959年9月15日より、二人の創業スタッフで後々日本を代表する輸出品となった、トランジスターラジオの商売がNY市の小さなオフィスにて始まった。
創業の人Raymond Gatesと日本からの代表、B. Fujiiの二人三脚の出発であった。代表社長は松下幸之助と記録されている。自社ブランドでは商売にならず、『Lafayette』というOEM(他のメーカーブランド)でHi Fi商品の一部をわずかに販売しただけであった。翌年60年9月には『Matsushita 』ブランドで3機種のポータブルブランドが、11月にはテーブル型トランジスターラジオがそれぞれ1機種づつ発売され、初めてMacy’sの電気売り場に並ぶが金額的にはわずかであった。
『Panasonic』 と呼ばれるブランドが承認されたのはその後の1961年であった。この時にはAM・FMラジオ、トランジスターを使ったオープンリールのテープレコーダー、時計付の目覚ましラジオ、蓄音機付AM・FMラジオと日本からのオーディオ機器の黄金時代へと突入していく。360円が1ドルとの為替交換レートが固定化し、輸出価格も安定しており、日本の工場も100メーター近いベルトコンベアーの上を整然と商品が流れ、器用な日本の作業員が6~7点の部品を基盤に挿入していく状況はその時代の近代工場のシンボルであった。同時期Sonyはマンハッタンの5番街にショウルームをオープン。日章旗を掲げていた。それを見た当時の駐在員の中には感慨で涙する人もいたと言われている。
アメリカも69年7月に初めて人を月に送り、月面着陸の様子がTVに映し出され、国力の強さを世界にアピール、経済的にも充実した時代であった。ガソリン価格もレギュラーが20セント前後、タバコもほぼ同じ価格であったと記憶している。フォードのマスタングが2500ドル、トヨタのコロナが1800ドルのなかで、トランジスターラジオはAM Onlyで$9.99からカセットテープ録音機は$29.99そして木目でエアーサスペンションのステレオAM・FMチューナーは歴史的な記録破りの価格、$99.99と大ヒット商品になる。これにBSR(イギリス製)ターンテーブルが付いて、200ドルまで、カセットが付いて300ドルと付加価値の付いた高級商品に日本のトランジスターオーディオが市場を席巻した。
技術商品としてはクロックラジオでトップに触ると音声で時間を知らせる商品が出て市場で話題になるがこの声が日本語なまり英語の女性だと苦言をいただくが、真実は定かでない。またアイデア商品では現代では考えられないAMテーブル型7石トランジスターラジオのトップがタバコ入れになったものがミリオンセラーになったり、70年大阪万博を記念してタイムカプセルを型どったボールラジオ$9.99が7色カラーで発売、アカウントあたりミリオンセラーになった。
ちょうどその頃私もデトロイトで販売プロモーターをJL Hudson百貨店でやっていたが、クリスマス時期には売り場から倉庫まで何度も何度も商品を運んだ事を思い出す。一人が何個も買ってくれる様子は壮観だった。ただこれはオーディオだけの話で、この時の花形だったカラーテレビにはアメリカのメーカーを相手に手も足も出せなかった。
ちなみにRCA、GE、Zenith、Magnavox、Motlora、Silveniaとアメリカのカラーテレビがどの店でも中心で、Panasonic、Sony、東芝、日立、三洋、シャープなど日本での主要カラーテレビメーカーは太刀打ちできない状況だった。特に大型コンソールカラーテレビは一品も日本のメーカが入れなかった。
しかしながら白黒テレビの市場は、いち早くトランジスター化した日本性が画面のシャープさとデザインの良さ、消費電流の低さと特徴を示し、徐々にマーケットシェアーを伸ばした。
それではこの時代の世界の事情はどうかというと、欧州はシーメンス、テレフンケン、フリップス、トムソンというメーカーが強く、オーディオを除き、アメリカと同じように、テレビでは日本メーカーは苦戦していた。東南アジアでは戦時賠償ベースに少しずつ販売が伸びを見せていたが、電池、電化商品など安価なものと、オーディオ商品以外はほとんど輸出されていなかった。唯一台湾、香港、シンガポールが欧米的な商品を持ちと台湾では自国で大型白物商品を製造、販売をはじめていた。もちろん文化大革命中の中国には何も売るものはなかった。アフリカ、中近東、中南米は政権の不安が続き、直接資本投下して販売会社を作るにはリスクが大きく、大半代理店、商社を通してのビジネスに過ぎなかった。
そういう意味ではこの時代、日本とアメリカに目を向けた、市場、商品作りに集中した効率のいい商売が出来た。特にアメリカは世界の人種のるつぼで、ここで受け入れられた商品は世界に通用する、マルチ文化商品であり、その上最高の激戦市場のため、この市場でウイニング商品は世界どこでも通用した。
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日時: 2008年10月01日 21:12 | パーマリンク
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