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2008年12月01日 21:13に投稿されたエントリーのページです。他にも多くのトピックエントリーがあります。メインページやアーカイブページをご覧下さい。
« 4)ブランドマネージメント:岩谷 英昭(ABPS代表幹事) | メイン | 6)米国家電流通チャネルの変革:岩谷 英昭(ABPS代表幹事) »5)ビデオ、カラーTVの独占体制:岩谷 英昭(ABPS代表幹事)
1970年代に入り、カラーTVは日本の各メーカーよりポータブル、テーブルトップを中心にアメリカ市場に雪崩しきに参入してきた。迎え撃つ強豪RCA、ゼニス、マグナボックスは各社15%を超える占有率を確保、一歩も譲らぬ体制で強みのコンソール、プロジェクションTVを加え大型テレビで圧倒的な強さを示した。
1971年12月、米国ニクソン大統領は自国のドル流失を防ぐため通貨の多国間調整(金1オンス=35から38ドル、1ドル=360から308円に切り上げ)を行なったことから、時代は変動為替相場制(1973年2-3月)へと大きく切り替わった。この変化が、今までの日本の価格優位性を切り崩した。その上ゼニス社が松下電器を含む日本の主要TV製造各社にダンピング訴訟を起こした。この事件をきっかけに日本では二重価格問題として、国会に社長喚問があり、テレビで実況中継された。これは単にビジネスを難しくしただけでなく、「良い物を市場の求める価格で導入すればアメリカ人に受け入れられる」と思っていた日本メーカーの競争意識、モラルまで影響を与えた。まさに戦意喪失の状況であった。
しかしいち早く立ち直った松下電器はアメリカのメーカーとして本格的に活動するために当時財政的に困難な状況下にあって、起死回生を図るためにカラーTV部門を売りに出していたモトローラー社のTV部門をクエーザーブランドと共に買収した。この買収劇はアメリカの自動車産業に続く基幹産業のエレクトロニクス部門の中心であるテレビ部門を日本の経営傘下におさめたと言う画期的な出来事として他のメーカーにも活力を与えた。Sony、東芝、日立、三洋、Sharpなど各社がアメリカでの現地化に拍車を掛け、製造拠点を作り本格的なアメリカ市場攻略に取り組んだ。ただ販売はそんなに簡単ではなく、消耗戦の状況下であった。この状況を打ち破る商品として、70年代半ばに日本企業が開発競争に血みどろになっていたビデオの規格が徐々に統一に向かって動き始めた。
当時ビデオのベーターシステムを開発したSonyさんは、持ち前の技術力で画像の美しい放送中心に使われていた、夢の録画機を市販用として試作、各社に規格参加を呼びかけた。松下幸之助もこのシステムに大いに興味を示し、何度か盛田社長&CEOの訪問を受け、まさに参加寸前の時に、アメリカ訪問中の稲井副社長より報告が入り、アメリカメーカーの代表であるRCA,小売のトップであるSears社の幹部から、「アメリカは録画時間の長い、子会社の日本ビクターが開発したVHSの方が販売に有利」との強いメッセージが入る。常にお客様の声を聞いてきた経営の神様は迷わず、アメリカのお客様の要望する商品に決定を下し、OEM販売でRCAから1977年『Selecta Vision』の名称でアメリカ人が望むフットボールゲームの録画可能な4時間記録のVHSビデオが1000ドルで店頭に並んだ。日本ビクターが開発、松下寿電子が製造、RCAが販売を担当したマーケティングの勝利であった。この傾向を受け日本の同業他社もVHSに傾き、規格統一はVHSに自然に決まった。数年遅れでSonyさんも技術的にすばらしいベーターシステムを放送業界のプロ用として残し、市販商品はすべてVHSに取り組まれた。
さらに映画業界はレンタル、販売用のプリレコーデングテープを湯水の如くに売り出し、VHSビデオはAV機器の心臓部を占めるようになり、ここから決定的にアメリカのテレビ業界との差別化、格差が顕著になってきた。店頭の代表的展示もビデオを代表商品に取り上げ、2ヘッドのプロモーション商品から、4ヘッドのステップアップ、さらにハイファイビデオと品揃えも充実、まさにビデオ市場はしばらくは日本エレクトロニクスメーカーの独壇場であった。もちろん欧米のメーカーのOEMで日本に発注して独自のチャネルに流してくれたため、日本メーカーはビデオ天国という状況でした。今までカラーテレビの定番が決まらなかった、エレクトロニクスブテックストアー、伝統的テレビ家具ストアーもビデオの商談に乗せて、カラーTVの定番が決まっていった。
ここで少し商品作りの話に触れたい。
ビデオのように今まで市場にない画期的な商品を開発、研究する事はメーカーとしては急務であるが、お客様の声をよく聞き、市場の要望にあった今までの商品に改善を加えた物作りもヒット商品につながる。
当時アメリカ松下電器の直轄製造事業場として存在した松下寿電子に市場から持ち込まれた強い要望は、テレビとビデオを一体化すること。ビデオはすばらしい商品だが、いちいちテレビとのコネクションが面倒で小型テレビを部屋から部屋へ移動するのもいちいち配線をやり直さなければならないという不便さがある。「何とか一体化できないか」という強い要望である。日本サイドに国内市場的にはコネクションは消費者のレベルも高く、電気店のサービスもきめが細かく、それほど要望もなく、その上高価なテレビ、ビデオどちらかが壊れた場合、無駄が生じると、否定的な意見が多い中、松下寿電子は、商品化に漕ぎつけてくれた。それがアメリカではチャネル別にディスカウントストアー、会員制倉庫クラブへ商品の供給が追いつかなくなるほど格好のヒット商品に成長した。バラィティーも9インチ、13インチの台所、勉強部屋用20インチ、25インチの寝室用、27インチ以上の大型がスペースの少ない居間用、また各種講習会のプレゼンテーションにも人気があり、最高で500万台の販売を業界として達成するに至った。このビデオ商品の成功はまさに世界的にエレクトロニクスビジネスの潮流を変えた。特にアメリカにおいてはこの後、全てのコンスーマーエレクトロニクスの会社は倒産、廃業、他社に売却された。
そして1980年代、日本はバブル期に突入、1ドルは80円台まで高騰、
世界的にエレクトロニクス産業は黄金期を迎えた。
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日時: 2008年12月01日 21:13 | パーマリンク
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